海面は厚い氷に覆われていた。 雪なのか氷のかけらなのか判別できない白い粉状のものが、凍るように冷たい風に弄ばれて、さらさらと音を立てて、氷の海の上を滑っている。 氷河が東シベリア海の海岸近くに自分の家(というより丸木小屋)を建てたのは、今から3年ほど前のこと。 唯一の肉親だった母を失ってから7年の月日が過ぎ、氷河は青年と呼ばれる年齢になっていた。 氷河が村を離れ、風雪を遮る樹木1本もない そんな場所に家を建てたのは、深い海の底に眠っている彼の母を偲ぶため。 少しでも彼女の近くにいたかったから。 そして、何かというと、『いい加減に大人になれ』と言う村の大人たちを 煩わしく感じるようになっていたからだった。 『人は いつまでも子供のままではいられないんだ』と、村の大人たちは 口を揃えて氷河に言った。 氷河が、『大人になるということは どういうことか』と問うと、彼等は『死んだ者のことを忘れることだ』と答える。 それなら 自分はずっと子供のままでいようと、氷河は思ったのだ。 誰よりも自分を愛してくれた人のことを忘れて、自分が幸せになれるとは思えなかったから。 若く美しく優しい母を、氷河は心から愛していた。 彼女もまた、氷河を深く愛してくれていた。 母より深く自分を愛してくれる人が この世にいるとは思えなかったし、母より深く愛せる人に巡り会えるとも思えない。 その母は死んでしまったのだから、氷河は一人で生きるしかなかったし、母がいないのだから、それは当然のことだとも、氷河は思ったのだ。 目を閉じれば いつでも すぐに、優しかった母の姿を脳裏に思い描くことができる。 彼女に愛されていた自分を知っている。 彼女に愛されていた自分には、生きて存在する価値があると思うことができる。 それだけで、氷河には 何の不足もなかったのである。 村から数キロ離れた場所に建つ氷河の家。 その周囲には、何もない。 もちろん、人家もなかった。 氷河は、半月に一頭 セイウチを狩り、一部の肉を残して それを村に持っていって、生きるために必要な様々なものを手に入れていた。 村人たちは、最初のうちは、村を離れて一人きりで暮らしている氷河の身を案じているようだったが、村を離れて 一層たくましさを増し、村人たちにとっても 貴重な海獣を定期的に村にもたらしてくれる氷河の存在は有難く――結局 彼等はその状況を受け入れるようになっていったのである。 氷河は、孤独が苦にならない男だった。 気に入らない人間の存在を我慢して 集団の一員でいることより、誰にも煩わされることなく 一人でいる方が気楽。 そうしたい時に母を思い出し、そうすることによって 母に愛されていた幸福を思い出すことのできる日々に不満はない。 母を思うことを禁じられてしまったら、それこそ自分は孤独になり不幸になるだろう。 そう、氷河は思っていたのである。 |