その日は、朝から天気がよく、いつもの灰色の空が 春の空のように明るい水色を呈していた。
とはいえ、日中でも氷点下の真冬。
東シベリアでは、真冬には それが日中でも 子供が一人で家から1キロ以上離れることは危険極まりないこととされていた。
そんな季節の、そんな ある日。
氷河の家に、一人の来客があった。

「こんにちは!」
盗まれて困るような貴重品があるわけでもないので、氷河の家の扉には鍵のようなものはなかった。
それが顔見知りの村の者なら 許可なく家の中に入ってこられても、氷河は特段 何も思わなかったのだが、その日、明るい声をノック代わりに無断で氷河の家の中に入ってきたのは、見知らぬ一人の女の子だった。
歳は、14、5といったところ。
丈が短く薄手の薄桃色のコートの裾を翻して、その子供は 軽やかに氷河の家の中に飛び込んできた。
春夏ならまだしも この季節に その格好は自殺行為だと、氷河はまず思ったのである。

「何だ、おまえ。そんな恰好で」
許可も得ずに他人の家に入り込んでくる礼儀知らずの身を案じてやる義務はないと思い直し、氷河は その子供を睨みつけた。
「何だ……って、見てわかりません?」
「わかるか。俺には、名も名乗らず人の家に ずかずか入り込んでくるような知り合いはいない。俺にわかるのは せいぜい、おまえが細っこい女の子だってことくらいだ」
氷河は暗に その子供の無礼を責めたつもりだったのだが、その子は 逆に氷河への不満を表明するように、その唇をとがらせた。
まもなく自分の非礼に気付いたのか、その子供は唇を とがらせるのをやめ、顎を引くように頷いてみせた。

「やっぱり、自己紹介は大切ですね。僕は瞬。細っこい女の子じゃなく、たくましい男の子です!」
まるで自慢するように、その子供――瞬――は、氷河の認識を正してきたが、氷河は 到底 自分の認識を修正する気にはなれなかった。
「自己紹介ほど信じられないものはないな」
氷河の口調が、つい しみじみしたものになる。
せっかくの自己紹介を信じられないと断じられ、瞬は少なからず 傷付いたらしい。
「ひどい……。僕、ほんとに たくましい男の子なのに」
瞳に涙をにじませて、瞬は、恨みがましげに 氷河を責めてきた。
いったい これのどこが“たくましい”のだと、氷河は、瞬の いかにも頼りなげな様子に呆れてしまったのである。

女の子ではなく男の子だという主張は、顔と手以外は衣類に覆われているので確かめようがなく、そうなのかもしれないと思うこともできなくはない。
だが、“たくましい”は絶対に違うと、氷河は思った。
瞬が自分自身を誤認しているのか、“たくましい”という言葉の意味がわかっていないのか、それは氷河にも わからなかったが。
だが、そのいずれなのかを確認するために無駄な問答をして 時間を費やすことは避けたい。
氷河は、訳のわからない この子供を適当にあしらい、速やかに お帰り願うことにした。

「ああ、わかった、わかった。で、その たくましい男の子が何をしに来たんだ」
「はい。僕、冥界から――」
たくましい男の子は、一応 ちゃんと用があって、この家にやってきたらしい。
氷河に来訪目的を問われた瞬が、一瞬の ためらいもなく、張り切った様子で氷河に頷く。
口にしかけた言葉を 別の言葉に言い変えて、瞬は その来訪目的を大きな声で氷河に知らせてきた。
「僕は、天国から、氷河のお母さんの伝言を氷河に伝えにきました!」
「……」
か弱い自分を たくましいと思い込んでいるような子供の言葉を、氷河は信じる気にはなれなかった。
もとい、もし瞬の姿が本当に たくましい男の子のそれだったとしても、あるいは 瞬が自分を か弱い女の子だと自己紹介していたとしても、氷河は その言葉を信じることはできなかっただろう。
信じられるわけがない。
死者の伝言を伝えに来たなどという そんな言葉、人間の姿をした者の唇から発せられた そんな言葉を。

澄んだ瞳。
愛くるしい顔立ち。
やわらかく 親しみやすい表情。
その上、性別不詳。
瞬の姿は、確かに、その背に白い翼がないのが不思議なほど天使めいていたが、氷河はそもそも天使の存在を信じていなかった。

「マーマの伝言? 馬鹿馬鹿しい。そんなことが信じられるか。まだ、猟で 俺に見逃してもらったウサギやテンが人間に化けて恩返しにきたと言われた方が信じられる」
もちろん、もし そうだったとしても、氷河には そんな恩返しは迷惑以外の何物でもなかった。
そんなことをされてしまったら、明日から猟がしにくくなるではないか。
セイウチほどではないにしても、ウサギやテンの毛皮は かなり実入りがいいというのに。
「だいいち、おまえ、当たりまえのことのように さらりと俺を呼び捨てにしてくれているが、そういう態度はどうなんだ? 俺が おまえの命の恩人でないにしても、俺はおまえより年上だと思うが」
自分が礼を欠いたことを重ねている事実を自覚し その態度を改めるよう、氷河は瞬に促したのだが――氷河は そのつもりだったのだが――瞬は自分が 非礼を咎められていることに気付いた様子も見せなかった。
逆に、瞬は、氷河の非難の言葉を喜ぶ素振りを呈してみせた。

「氷河が僕の言うことをすぐに信じないので 安心しました。氷河は、死の世界と生の世界が隔絶されていることは わかっているんですね」
「おまえは何を言っているんだ」
氷河は、そんなことを言ったつもりはなかった。
氷河は、瞬に その無礼な態度を改め 呼び捨てをやめるよう、要求したのだ。
ゆえに、氷河はすぐに瞬の勘違いを正そうとしたのである。
だが。
「呼び捨てはごめんなさい。氷河のお母さんが、いつも氷河のことを そう呼んでいたので、うつっちゃったの。『元気で可愛い私の氷河』」
瞬が口にした その言葉が、氷河に続く言葉を言わせなかったのである。

氷河の母は、確かにいつも氷河をそう呼んでいた。
『元気で可愛い私の氷河。今日のおやつはココアたっぷりのピロージナエ・カルトーシカよ』
『元気で可愛い私の氷河。もうすぐ氷河のセーターが編み上がるわ』
懐かしい呼びかけ。
懐かしい響き。
母の優しい思い出にかられ、一瞬 気を緩めたのがまずかった。
瞬は すかさず その一瞬の隙をついて、
「氷河のマーマは、僕のことを『瞬ちゃん』って呼んでましたから、氷河もそう呼んでくださって構いませんよ」
と言って、傲慢にも 氷河に美称つきで 名を呼ぶ許可を与えてくれたのである。

もしかしたら 瞬は、自分が年上の人間に与えた許可を傲慢や非礼とは考えておらず、単に自分が氷河を『氷河』と呼び捨てにする交換条件を提示しただけのつもりだったのかもしれない。
しかし、それは氷河には到底 受け入れられない交換条件だった。
氷河は、瞬の傲慢な許可を即座に辞退して、瞬を、
「瞬」
と呼び捨てにした。
瞬は少し不満そうな顔になったが、氷河は瞬の機嫌の良しあしなど気にしていられなかったのである。

『元気で可愛い私の氷河』
それはどこの家の母親でも我が子に対して普通に用いる呼びかけである。
氷河の母だけが 我が子を そう呼んでいたわけでもないだろう。
だが、氷河の母が氷河を いつもそう呼んでいたのは、紛う方なき事実だったのだ。
「おまえは本当に天国から来たのか? 本当に、天国の住人なのか?」
決して瞬の言葉を信じているわけではない。
氷河が瞬に そう尋ねたのは、むしろ瞬の嘘を暴くため、瞬の主張に矛盾を見い出そうとしてのことだった。

「氷河のお母さんとは親しくさせていただいていました」
天国で『親しくさせていただいて』とは、どういうことなのだろう。
天国にも近所付き合いというものがあるのだろうか。
まるで、氷河の母が すぐに訪ねていけるような隣りの家に住んでいて、毎日 そこに遊びに行っていたようなことを言う瞬を見て、氷河は思ったのである。
瞬は天国の住人なのではなく、瞬の頭が天国なのだと。

これは やはり当初の予定通り、すみやかに退散してもらった方がよさそうである。
そのために、氷河は、瞬から“氷河のお母さんの伝言”とやらを聞く振りだけして、用の済んだ瞬を この家からさっさと追い出すことにした。
だから氷河は、マーマの伝言を伝えにきたという瞬の言葉を信じてもいないのに、
「で、マーマの伝言というのは?」
と、瞬に訊いてやったのである。
だというのに、氷河の質問に対する瞬の答えは、
「伝えるべきかどうか、僕、ちょっと迷ってるの」
という、実に ふざけたものだった。






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