「なら、なぜ来た」 問い返す氷河の声が不機嫌極まりないものになったとしても、それは致し方のないこと――むしろ、自然なことだったろう。 瞬は かなり鈍感な子供らしい。 あるいは本当に頭の中が天国か お花畑なのかもしれない。 瞬は、氷河の声の不機嫌に気付いた様子は見せなかった。 もちろん、氷河の低い声に怯え ひるんだ様子もない。 怯え ひるむどころか。 不機嫌を極めた顔の氷河の前で、瞬は逆に攻めの態勢に入ってみせたのである。 瞬は、 「氷河のマーマの伝言を 氷河に伝えるか 伝えないか、その答えを出すためです。答えが出るまで、僕をここに置いてください」 と、図々しいにも ほどがあるだろうと言いたくなるようなことを、氷河に要求してきたのだ。 そこまでされて――氷河は、瞬の図々しさに、憤りより疲労感を覚え始めた。 「あのなあ。俺が、どこの馬の骨ともしれないような奴を信用して、おまえを“ここに置く”なんてことをすると思うか? おまえは タダ飯にありつこうとする騙りかもしれないのに。常識で考えろ!」 「あ、氷河に そんなふうに言われた時には、『3番目は、マシュマロを浮かべたココア。2番目は、北の空にある十字の星。1番目はマーマ』って言えばいいって、氷河のマーマが教えてくれました。それできっと氷河はわかってくれるからって」 「……」 騙りに決まっている。 信じられるわけがない。 どうすれば信じられるというのだ。 死んだ者の伝言を伝えにきた――などという見知らぬ人間の言葉を。 氷河の“常識”は、そう考えていた。 常識で考えれば、そんなことはあり得ない――と。 だが。 『それできっと氷河はわかってくれるから』(と言えばいいとマーマが言った)という瞬の言葉の意味が、氷河には わかってしまったのだ。 それは、母が生きていた頃、氷河が好きだったもの。 そして、母以外は知らない母子の秘密だった。 『あれは白鳥座。いちばん明るい星がデネブ。くちばしのアルビレオは、サファイアみたいな青い星とトパーズみたいなオレンジ色の二重星。あの大きな十字は、北十字と呼ばれているのよ。氷河はどうして、あの星が好きなの?』 母に そう問われたのはいつのことだったか。 『よく わかんない。いつも見てたら、いつのまにか好きになってたんだ』 夏だったのか、冬だったのか。 季節や時刻によって見える場所は違っても、毎日必ず天頂近くにまで上る白鳥座は1年を通して見ることのできる星座だった。 『理由もわからず、いつのまにか好きになっていたの?』 『うん……』 氷河が正直に答えると、氷河の母は楽しそうに笑った。 『そうね。もしかしたら、理由もわからないまま いつのまにか好きになっているものこそが、人にとって本当に大切なものなのかもしれないわね。理由がある“好き”は、その理由がなくなったら、好きでなくなってしまうかもしれないもの』 曖昧で よくない答えを返してしまったかもしれないと不安になっていた氷河は、母のその言葉を聞いて ほっと安堵したのだ。 『でも、僕がいちばん好きなのは――』 これだけは言っておかなければならない。 もちろん北十字の星は好きだが、僕には もっと好きなものがある。 氷河が言おうとした その言葉を、だが、氷河の母は微笑で遮った。 そして、氷河の金色の髪を撫でながら、まるで歌を歌うように言う。 『氷河が大好きなのは、マシュマロを浮かべたココア。次に好きなのが、北の空にある十字の星座。いちばん好きなのは――』 『マーマ!』 氷河が 大きな声を張り上げると、氷河の瞳と同じサファイア色の瞳を輝かせ、氷河の母は、 『マーマも氷河がいちばん好きよ』 と言って、氷河を優しく抱きしめてくれたのだ。 二人きりで、幾度も同じやりとりをした。 他人の目や耳のあるところで そんなことをした記憶はない。 ココアにマシュマロが浮かんでいないと不機嫌になる子供じみた自分を、氷河は子供心に 他人には知られたくないと思っていたし、氷河の好きなものは、氷河にとっては 宝物のように大切な秘密だったから。 その秘密を、瞬は知っている。 氷河は その秘密を誰にも語ったことはなかったから、瞬は、その秘密を氷河の母から聞いたのだとしか考えられなかった。 それも、生きている彼女からではない。 彼女が死んだのは、もう10年も前。 その頃、瞬は せいぜい4歳か5歳だったろう。 瞬が 生前の彼女から その秘密を聞いたことがあったのだとしても、4、5歳の子供にとって、よその子供が好きなものが10年も忘れずにいるだけの価値がある事柄だとは、氷河には到底 思えなかった。 では、瞬は、本当に天国からやってきたのか。 だから、これほど天使めいた姿をしているのか――。 母との懐かしいやりとり。 氷河自身、たった今まで忘れていた、母との会話。 氷河は混乱した。 その混乱の中で、氷河は瞬を信じ始めていた。 しかし、瞬が本当に天国からやってきた人間(?)なのだとしても、疑念は残る。 つまり、なぜ“伝言”なのかという疑念が。 「マーマが俺に伝えたいことがあるんだとしたら、なぜマーマ自身が来ないんだ」 母その人が来てくれたのなら――瞬のように はっきりした姿を持っていなくても、オーロラのように おぼろげで不確かな姿でも、氷河は決して その人を偽者や騙りなのではないかと疑ったりはしなかった。 少し 憤りめいたものさえ含んでいる氷河の疑いの言葉に、瞬は申し訳なさそうに答えてきた。 「冥界――天国に迎え入れられた人は、そこに10年以上いると、もう外には出られなくなるの。その魂に染みついた死の力が、生きている人に影響を及ぼしてしまうから。もちろん、よっぽどのことがない限り、死んだ人が生きている人に会うことは禁じられているんだけど、死んで10年以上が経った人は、よっぽどのことがあっても 生きている人間に接することは許されないの」 「10年以上が経つと?」 確かに、氷河の母は亡くなって10年が経っている。 では、瞬は、死んでからまだ10年経っていないということなのか――。 天国のルールなど、生きている人間には知りようもない。 ゆえに、瞬の言葉が本当のことなのかどうか、氷河には判断することができなかった。 当然、瞬の言葉を嘘だと断じることもできない。 母の伝言。 氷河は、それを聞きたかった。 嘘でもいいから聞きたかった。 嘘かどうかは、聞いてから判断すればいいことである。 「マーマの伝言を伝えるか伝えないか、その答えを出すために ここに来たと言ったな。どうすれば、その答えを出せるんだ」 「それは僕にもわからないの。氷河がなぜ 北の空の十字の星を好きなのか、その理由がわからないように」 『なぜ北の空の十字の星を好きなのか、その理由はわからない』 それは、氷河が母に告げた言葉だった。 そして、氷河が母に『なぜ好きなのかわからない』と告げたのは、たった一度きりだった。 その言葉を、瞬は知っている。 おそらく北十字の星を好きな子供の母親から聞いて。 瞬が氷河の母を知っていることは確実だった。 「氷河と一緒にいて、氷河を知って、そうすれば いつか その答えがわかると思うの。迷惑はかけませんから、しばらく僕を ここに置いてください。僕だって、その答えを知りたい……」 答えを知りたいのは、氷河も同じだった。 嘘でもいいから、母の伝言を知りたい。 なぜ瞬が母から伝言を託されたのか、そのわけを知りたい。 母の伝言が嘘なら嘘で、瞬がなぜ母子の秘密を知ることになったのか、その謎のわけを、氷河は知りたかった。 だから、氷河は、瞬の申し出を受け入れることにしたのである。 歓迎する気はないし、その生活の世話をしてやる気もない。 ただ この家にいてもいいというだけのことだと、念を押して。 瞬は、嬉しそうに、それで十分だと答えてきた。 「言っておくが、この家には、ダイニングとリビングと作業場を兼ねた部屋と 俺の寝室があるきりで、ゲストルームなんて洒落たものはないぞ。寝室には もちろん、俺のベッドが一つあるだけだ」 「そんなの、なくても平気です。僕、部屋の隅に丸まって寝ます」 この家にいてもいいという許可をもらえれば それで十分という瞬の言葉は、嘘ではなさそうだった。 寝台も寝具もいらないという瞬に、死人なら寒さも感じないのだろうと、その時には 氷河も了承得心したのだが、いざ夜がきて、本当に瞬に ダイニングとリビングと作業場を兼ねた部屋の隅に丸くなられてしまうと、氷河はさすがに瞬を放っておけなくなってしまったのである。 死人が寒さで死ぬことはないだろうが、生きている人間には、瞬のその様が寒く感じられて落ち着けないのだ。 仕方がないので、氷河は、いざという時の燃料や 物の運搬の緩衝材として使うために屋根裏に蓄えてある藁を運んできて、その上に布を掛け、即席のベッドを瞬のために作ってやった。 「ありがとうございます! でも、僕、氷河と一緒のベッドでもいいんですよ。その方があったかいと思いません?」 「なに?」 少し親切にしてやると、すぐにつけあがる。 氷河が むっとした顔になると、瞬は慌てて即席のベッドの中に逃げ込んだ。 そして、死人が疲れていたわけでもないだろうに、そのまま すぐに寝入ってしまったのである。 死人が眠ることの不思議より、瞬の図々しさに腹が立って、氷河の方は その夜、なかなか寝付けなかったというのに。 |