「氷河、おはよう!」
翌日 氷河を叩き起こしてくれたのは、太陽と地球の位置関係が作る朝の兆しではなく、時計でもなく、やたらと元気な瞬の声だった。
母が亡くなってから初めて 朝のベッドの中で聞く朝の挨拶――懐かしい朝の挨拶。
瞬の図々しさへの立腹のせいで寝不足気味だったのだが、氷河は その懐かしい朝の挨拶のせいで、つい瞬への立腹を忘れてしまったのである。
とはいえ、氷河が 瞬への立腹を忘れていられたのは、朝の ごく短い時間だけだったが。

その日、氷河はセイウチ猟に行くことにしていた。
その予定を 勝手に押しかけてきた居候のために変える必要もあるまいと考えて(むしろ、意地でも変えてたまるかと考えて)、黒パンと干し肉を僅かばかり腹の中に入れると、氷河は予定通り家を出て浜に向かったのである。
死人は 天国の外でも食事を必要としないのか、食べ物を分けてほしいとは言わず――それは よかったのだが、運搬用のソリを引いて家を出た氷河のあとを、当然のように追いかけてきた。

「どこに行くの?」
「何をしに行くの?」
「どうして、こんなに大きなソリを引いていくの?」
家に置いてもらえるなら迷惑はかけないと言っていた瞬が、次から次に うるさく質問を投げて、氷河に迷惑をかけてくる。
最初のうちは無視していたのだが、無視していると瞬は同じ質問を いつまでも繰り返し続けるだけだという事実に気付き、結局 氷河は 瞬に答えを与えてやらなければならなくなった。
「浜だ」
「セイウチを狩る」
「成獣のセイウチの体長は軽く2メートルを超える」

氷河が瞬に与えた答えは 短く ぶっきらぼうなものだったが、それで瞬は氷河の外出の目的は理解してくれたようだった。
――と、氷河は思っていた。
それが、とんでもなく楽観的な誤解だったことに氷河が気付いたのは、1頭のセイウチを うまく群の外に誘い出すことに成功した彼が、今日の獲物にとどめを刺そうとした時。
「やめて! やめて! どうして そんなことするの! この子は生きているんだよ! 氷河は生きているものの命を奪うの!」
瞬は、自分より はるかに大きな身体を持ったセイウチを“この子”呼ばわりして、セイウチに銛を突き刺そうとした氷河の腕に取りすがり、氷河の猟の邪魔をしてきたのだ。
狩ったセイウチを運ぶために大きなソリを引いてきた氷河の“目的”を、瞬は全く理解していなかった。
もちろん氷河は、ためらいもなく瞬の手を振り払って、銛をセイウチの横腹に突き刺し セイウチの命を奪い、瞬に かすれた悲鳴をあげさせたが。

恨みがましげな目で瞬に見詰められ、氷河は我知らず溜め息をついてしまったのである。
既に自分の命を持っていない瞬は、生き物の命というものが どうやって保たれるものなのかを忘れてしまったのだろうかと考えて。
まっすぐに、一つの命を奪った男を見上げてくる瞬の瞳は 綺麗に澄んでいて、氷河は ほんの一瞬だけ、これから その瞳を曇らせようとしている自分に憐憫の情を抱いた。

「おまえは花を摘んだことがあるか? 天国ではなく、この地上で」
瞬は、自分が なぜ そんなことを訊かれるのかわからない――という顔になった。
ごく短い間。
おそらく瞬は、
「……あります」
と返事をした時には もう、氷河が これから言おうとしていることをわかっていた。
氷河がセイウチを狩る目的を、今度こそ本当に理解していた。
そう確信して、氷河は、瞬が頭がお花畑の馬鹿な子供ではないということを知ったのである。
それどころか瞬は 文字通り 一を聞いて十を知る聡い子だと、氷河は己れの認識を改めた。

「人に摘まれた花は枯れる。おまえが摘まなければ、その花は生き続けて、種を結び、もっとたくさんの花を咲かせることができていたかもしれない。おまえは花の命を奪った。無意味に奪った。だが、俺がセイウチの命を奪うのは、俺や村の者たちの命を維持するためだ。無意味でも無目的でもない。俺がセイウチの命を奪うことには、おまえが花を摘むこととは違って、意味がある」
「はい……」
瞬は愚かな子供ではない。
瞬は、腹に銛が突き刺さったセイウチを いつまでも つらそうに見詰めていたが、氷河が獲物を運びやすくするために ナイフで その巨体の解体を始めても、もう何も言わなかった。
『かわいそうだから、やめて』とは、もう。

「見ているのが つらいなら、見ている必要はないんだぞ」
瞬の瞳が涙で潤んでいることに気付き、氷河は瞬に そう言ってやったのだが、瞬は そんな氷河に、
「見ています」
という、きっぱりした答えを返してきた。
いつもなら 解体した獲物をソリに載せたら、そのまま村に運ぶのだが、氷河は その日は荷物に覆いをかけて村に向かった。

村では、多くの人間が 氷河の運んできたものを見て喜んだ。
瞬より ずっと幼い子供たちですら、ソリの周囲で歓声をあげて喜んだ。
それこそ、サンタクロースからプレゼントをもらった 豊かで幸福な家の子供たちのように。
それは村人たちの命を何日分も保障する命なのだから、彼等の喜びは当然のこと。
瞬は、氷河がセイウチの肉や皮や牙と引き換えに、別の食料や 生活するために必要なあれこれを調達する様を、黙って見詰めていた。






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