「おまえ、飲食はできるのか」
載せる荷物が すっかり変わってしまったソリを引いて家に帰った氷河は、その荷をほどくと、ダイニングとリビングと作業場を兼ねた部屋のテーブルの椅子に 肩を落として腰掛けている瞬に訊いてみたのである。
瞬が 無言で こくりと頷いたので、氷河は沸かす湯の量を倍にした。
その湯で、村で調達してきたココアの粉を溶き、瞬の前にカップを置く。
「今日はマシュマロは手に入らなかったが――これもカカオの命を奪って作られたものだ。大切に味わえ」
「うん……はい。ありがとう……」

瞬が、陶器のカップを両手で包むように持ち、しばらく その温度を確かめるように中の液体を見詰める。
やがて、一口飲んで、
「温かい」
と、瞬は小さく呟いた。
滅多に客の来ない家なのに、椅子を2脚作っておいてよかったと思いながら、氷河は瞬の向かい側にある もう一つの椅子に腰を下ろしたのである。
氷河は、昨日ほど 今朝ほどには、瞬がこの家にいることを不快に感じてはいなかった。
むしろ、天国の美しいばかりの花園に慣れ親しんでいたのだろう瞬に、地上の命――地上の残酷な生と死を見せつけてしまったことを、少しばかり後悔していた。
この地上でですら、これほど なまなましい生と死の姿を一生知らぬまま、自分の命を生き終える人間もいるのに――と。

だから氷河は、瞬に、
「氷河は――命の大切さはわかっているのに、なぜ 生きている人と積極的に交わろうとしないの? どうして、村から離れた こんなところに一人でいるの? せっかく生まれてきたのに。せっかく生きているのに。氷河は何のために生きているの?」
と問われても、あまり腹が立たなかったのである。
余計なお世話だと、内心で思うことすらしなかった。
氷河は、鬱陶しがらずに、真面目に、瞬の問い掛けに答えを返した。
「人は いずれ死ぬ。俺もいずれは死んで、大地に還る。そして、花の命を育てるものになる。俺の死には意味がある。俺は 人を避けているからといって、無意味に生きているつもりはない」
セイウチもキツネもテンも花も――地上に存在する すべての命が そんなふうに生まれ、死んでいく。
人間とて例外ではない。
氷河は、この地上に存在する命の一つとして、おかしな生き方をしているつもりはなかった。
瞬が、そんな氷河に反駁してくる。

「でも、人間には心があって、言葉を持っていて、人を愛することができる。それは何のため? いろんなことに感動して、その感動を人に伝えて 理解を深めて、愛し合うためだよ。そうして、幸せになるため」
瞬の その考えを否定することは、氷河にはできなかった。
氷河自身が、そんな幸福を知っていたから。
「マーマとはそうしていた。花や星や 季節の移り変わり、毎日 新しい朝を迎えることにさえ感動して、朝の挨拶すら楽しかった。俺はマーマを愛していて、マーマも俺を愛してくれていた。俺は幸せだった」
「もっとたくさんの人と そんなふうにしようよ。そうしたら、氷河は今の何倍も何十倍も幸せになれるよ――なれるかもしれない」
「……」
それこそが人の正しい生き方なのだとまでは思わないが、望ましい生き方なのだろうとは思う。
決して、瞬の考えを否定する気はない。
だが、自分には受け入れられない。
ただ それだけのことだったのである、氷河には。

「マーマだけでいい」
あの優しく美しかった人と育み、経験した幸福。
あの幸福より上質な幸福を 他の誰かと経験することができるとは、氷河には思えなかったから。
既に最上の幸福を経験した者が、それ以下の幸福に満足することができるものだろうか。
最上のものではないものを、幸福と感じることができるものだろうか。
それは 失望と不満をしか生まないのではないか。
それが、氷河の考えであり、懸念だったのだ。
『マーマだけでいい』
氷河の答えを、瞬は その時は黙って受け入れた――ように、氷河には見えた。

だが、瞬は、その日以降も同じことを氷河に訴えてきた。
そのたび氷河も、同じ答えを答えた。
俺はマーマだけでいいのだと。
亡くなった人との思い出だけでいいのだと。






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