大切なものが一つ。 ――他の すべてが無価値になる。 欲しいものが一つ。 ――他の何も欲しくなくなる。 許されたい過ちが一つ。 ――他の過ちや成功を忘れる。 倒したい敵が一人。 ――他の敵の姿が視界に入らなくなる。 認められたい人が一人。 ――他の人間の評価が全く気にならなくなる。 愛されたい人が一人。 ――他の人間に どう思われようと構わなくなる。 愛している人が一人。 ――他の すべての人間の存在が消える。 一つの事物に夢中になったら最後、他のことはすべて忘れてしまう その性癖を、誰もが氷河の欠点だと言った。 もちろん、彼の仲間たちも。 否、むしろ仲間たちの方が、仲間であるからこそ、氷河に 彼の性癖についての苦言を呈することが多かった。 早いうちに治さないと、その悪癖は いつかおまえの命取りになるぞ――と。 「最初は、マーマ、マーマだったじゃん。殺生谷では、瞬を泣かせる兄貴を懲らしめたいの一心で、肝心の瞬の気持ちを無視。双児宮では、瞬に いいとこ見せようとして、状況判断ミスって自爆。天秤宮では、師匠に盾突く悪い弟子でいたくないってんで、他の宮で戦ってる俺たちのことを忘れて、さっさと戦線離脱。天蠍宮では、自分の感動に浸りきって、勝手に戦線離脱した自分を反省もせずに 俺たちに上から目線。その目の傷だって、原因は おまえの悪癖。アイザックに詫びなきゃってんで、その後も戦いが続くってこと考えもしねーで、自分で自分の目を潰そうとしたんだろ? おまえ、せめてバトルの最中だけでいいから、少しは 周囲のことに注意を払って、その後のことや おまえの仲間たちのことのことを考えるようにしろよ。――って、氷河、聞いてんのか、こら!」 氷河が聞いているわけがない。 彼は、“その後も戦いが続くってこと考えもしねーで”負った目の傷を覆っている包帯の緩みを 瞬に直してもらっていた。 瞬が至近距離にいること、その手が自分の髪や額や頬に触れる感覚に、氷河は陶然としていたのである。 仲間の今後を思って衷心から忠告している星矢の怒声を聞いている暇は、今の氷河には0.001秒もなかった。 城戸邸ラウンジの広さは約50平方メートル、和室で言うなら30畳強。 聞こえないはずがない仲間の怒声を、氷河は、聞いていないのではない。 彼には本当に聞こえていないのだ。 そんな氷河を見て頬を膨らませた星矢に、こちらは半ば以上諦めの表情を浮かべて、紫龍がぼやく。 「今の氷河の唯一の重要事項は、『瞬に構ってほしい』か。氷河の目の傷、実は ほとんど治っているのではないか」 「包帯してれば、瞬に心配してもらえるもんな。ほんとは包帯なんて もう必要ないくせに。つーか、ほんとは、包帯巻いてるのなんて鬱陶しいって思ってんだろ! おい、こら、氷河、人の話を聞けってば!」 聞かない氷河も相当であるが、めげずに氷河を怒鳴り続ける星矢の根性も なかなかのものである。 「そんなことないよ。氷河の目の傷は、まだ完治したとは言い難いし……。確かにいろんなことがあったけど、今 氷河が こうして生きてるっていうことは、氷河を見舞った試練が全部 どうにかなったっていうことで――」 「だから、こいつは いつまで経っても学習も反省もしないんだよ!」 怒鳴る星矢と 話を聞かない氷河の間を執り成すため――というより、氷河に忠告を無視され続けている星矢の気持ちを和らげるために――瞬が告げた言葉は、残念ながら火に油を注いだだけだった。 どんなトラブルを引き起こしても、絶体絶命の窮地に追い込まれても、ほとんど死にかけても――それらは いつも、最終的には必ず“どうにかなって”、氷河は九死に一生を得る。 それがまた、星矢の癪に障るのだった。 「こいつ、いっつも無茶やるくせに、妙に運がいいんだよなー。毎回、間一髪のところで どうにかなっちまってさ」 「氷河が いつも“どうにかなって”しまうのは、あまりに無茶や無謀ばかり繰り返すから、周囲の人間が放っておけなくて、つい 氷河に 手を貸してしまうせいもあるだろうな」 紫龍が『そのせいで、氷河の身内は皆、氷河のために命を落としている』とまで言わなかったのは、もちろん、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に対する彼の思い遣りだった。 が、氷河は、仲間のそんな思い遣りの心に気付いた様子も見せず、 「何度も窮地に陥った俺が、今でもこうして生きているのは瞬のおかげだ」 と言い切ってくれる。 そんな氷河に出会った紫龍は、つい胸中で、『はっきり言ってやればよかった』と 義と情の聖闘士らしからぬことを考えてしまったのである。 “恩知らず”とは、氷河のためにある言葉。 天秤宮で カミュのフリージング・コフィンを一刀両断してやったことを、紫龍はマリアナ海溝よりも深く後悔した。 「おまえという男は――」 「今は瞬に夢中で、俺たちに助けられたことを忘れてるんだよ、おまえは! おまえが今 生きてんのは、瞬だけのおかげじゃねーだろ!」 「貴様等が俺を助けてくれたことがあったか? いつ?」 完全な真顔で そう尋ねてくるところが、氷河という男の恐ろしさである。 氷河の表情と瞳に 純粋な(?)疑念しか存在していないことを見てとって、星矢は 心の底から呆れてしまった。 馬の耳に念仏、暖簾に腕押し、糠に釘。 氷河には、何を言っても無駄なのだ。 「それと、『今は』というのも訂正しろ、俺は今だけでなく、これまでずっと瞬が好きだった。瞬は、貴様等と違って 嫌味を言ったりしないし、貴様等と違って 優しいし、貴様等と違って 綺麗だし、貴様等と違って ありもしない救命活動を捏造して恩着せがましい態度を見せたりしない。俺は瞬のためなら、命も惜しくないぞ」 「へーへー、さようでございますか」 こんな男の言動に いちいち呆れることすら、体力の無駄使いに思える。 星矢は投げ遣りに そう言って、腰を下ろしていたソファの背もたれに背中から上体を投げ出した。 「まあ、おまえみたいなのには、瞬が監視役として ついててくれた方が、俺たちも安心できるけどな」 「瞬になら、一生 監視されたい」 どう考えても、氷河は、真面目に本心から そう言っている。 自分が監視が必要な男だと言われているのだということ、それが普通の人間なら侮辱と感じるものだということ、星矢は嫌味を言ったのだということ。 そういったことに、氷河は本気で気付いていないのだ。 今の彼にとって大事な物事は 瞬と瞬に関する事柄だけで、仲間の言葉や思惑は どうでもいいことだから。 氷河は常に一意専心、一心不乱。 その徹底振りは見事としか言いようのないものだった。 「瞬。おまえ、ちゃんと手綱 握っとけよ。氷河に振り回されないように」 「手綱だの監視だのって、そんな、暴れ馬みたいに」 「暴れ馬は星矢だな。氷河は暴れ鳥だろう」 「馬は暴れても、人を蹴り殺すだけで済むけど、鳥が暴れると、ぎゃーぎゃー騒ぎ立てて うるせーわ、羽根を撒き散らして後片付けが大変だわで、当事者以外の人間が被る被害が甚大なんだよ」 だから暴れ馬の方が暴れ鳥より ましと 本気で考えているらしい星矢に、紫龍は溜め息をつき――だが、何も言わなかった。 瞬に夢中になって他のことを見なくなっている氷河を、星矢が強く非難しないのは――文句を並べ立てることはしても、本腰を入れて氷河の態度を改めさせようとしないのは――氷河が瞬だけを見て、瞬の言うことを大人しくきいてくれている方が、他に氷河の悪癖の被害が及ばないからである。 その点に関しては、紫龍も全く星矢と同感同意見だったのだ。 氷河が瞬の監視下にいる。 それが、氷河の悪癖の被害を最小限に抑える最善の策。 星矢と紫龍は そう考えていた。 |