そんな仲間たちの思惑など 全く気にとめず――もとい、気付きもせず――今の氷河の心を占めている問題は ただ一つ、自身の恋の行方だけだった。 瞬には幾度も『好きだ』と言った。 そのたび瞬は、『僕もだよ』という、真意を測りかねる答えを返してくる。 『ずっと おまえと一緒にいたいんだ』と言えば、『うん。ずっと一緒にいようね』という、仲間としての答えなのか 恋人としての答えなのか 判別できない返事が返ってくる。 瞬は いつも駄々っ子を扱う母親のような態度で 白鳥座の聖闘士に接し――それはそれで楽しいし、嬉しいのだが――氷河は、そろそろ どうにかして 瞬との関係を大人の恋と呼べるものにしたいと考えていた。 否、熱烈に切望していたのである。 師走も大詰め。 できれば、その目標は年内に達成したい。 いっそ 今夜このまま 瞬の部屋を訪ねていって、そのまま大人の関係に突入してしまおうかと、氷河の思考はいつもの癖で暴走モードに入りかけていた。 実際、氷河は、行動を起こしたのである。 彼は自室を出て、瞬の部屋のドアの前まで行った。 なにしろ、氷河の諺辞典には『思い立ったが吉日』という諺は載っていても、『急いては事を仕損じる』という諺は載っていなかったのだ。 瞬の部屋のドアの前まで行っておきながら、氷河が部屋の主に声もかけず、ノックもしなかったのは、既に瞬が就寝していたら――就寝していても 瞬は気付いてはくれるだろうが――それで瞬の眠りを妨げるわけにはいかないと考えたからだった。 氷河が瞬の部屋のドアの前に立ったのは、夜中の1時をまわった頃。 健康的な生活を愛する瞬なら、既に就寝しているだろうと判断するのが妥当な時刻だったのだ。 氷河は、他人の迷惑を顧みることはしなかったし、顧みる気もなかったが、瞬に迷惑はかけたくなかった。 瞬の部屋のドアを開けるか否かは、一度自室に戻り、ベランダから瞬の部屋の灯りがついているか消えているかを確認してから決めた方がいいだろう。 そう考えて、氷河は踵をかえしたのである。 そうして、その時、氷河は気付いてしまったのだった。 怪しげな――これ以上ないくらい怪しげな――人影が瞬の部屋のドアをすり抜けて廊下に出てきたことに。 「何者だ!」 当然 氷河は その怪しげな人影を呼びとめた。 閉じられたままの瞬の部屋のドアから出てきたという一事だけを見ても、その人影が普通の人間でないことは確実。 普通の人間なら無問題というわけではなかったが、ともかく それは看過するには あまりにも怪しすぎる何かだったのだ。 「何者だとは、こちらの台詞だ。ここは瞬の部屋だぞ」 氷河の誰何に低い声で そう応じてきたのは、文字通り“人影”だった。 人の姿ではなく、人の影。 ぼんやりとした長い黒髪の男である。 長い黒髪の男といっても、紫龍ではない。 紫龍は 葬式以外では 黒づくめの服を身に着けることは まずないだろうが、怪しい その人影は、頭の天辺から爪先まで 黒づくめの服でその身(?)を包んでいたのだ。 この家の住人でない者が、この家の住人に、何者かと問うてくる。 それを無礼と咎めることなく、氷河が先に自らの名を不審者に名乗ったのは、 「アテナの聖闘士、白鳥座キグナス氷河」 という自己紹介のあとに、 「瞬の恋人だ!」 というフレーズを追加するため。 つまり、いかにも怪しげな不審者に 自分の立場を誇るためだった。 得意げに そう宣言した氷河を、黒い不審者が黒い瞳で じっと見詰める。 氷河の全身のみならず その胸中までを値踏みするように観察してから、その黒い人影は、深夜の廊下に再度 低い声を響かせた。 「人間というものは、やはり醜悪な存在のようだな。瞬以外の人間は 平気で嘘をつく。そなたが瞬の恋人だと?」 謎の人影に鼻で笑われて、氷河は思い切り むっとしてしまったのである。 氷河は、どこの誰なのかもわからない不法侵入者に そんなことを言われたくはなかった。 そもそも、どうして この怪しい不法侵入者が、それを嘘と断じることができるのだ。 「うるさいっ。もうすぐ そうなる予定なんだっ。そんなことより、貴様、今 瞬の部屋から出てきたな? どういうことか説明してもらおうじゃないか!」 「余のものを余が訪ねて、何か不都合があるのか」 「ヨのものとは何だ、ヨのものとは。瞬は もうすぐ俺のものになる予定なんだ。勝手にヨのものになんかするな! だいいち、貴様、何者なんだ」 瞬がもし この場に居合わせていたなら、瞬は、自分はヨのものでも氷河のものでもないと言っていただろうが、氷河はもちろん そんなことは気にしなかった。 そして、どうやら“余”も、そんなことは気にしていないようだった。 人影が、氷河に己れの名を名乗るべきか否かを考えている様子を見せる。 もしかすると、彼は、氷河の相手をすべきか否かを考えていたのかもしれない。 考えて――結局 彼が、 「余は神だ。冥府の王ハーデス」 と己れの名を名乗ったのは、氷河にだけ名を名乗らせ 自分だけが名乗らないのは氷河への失礼に当たると考えたからではなく、ここで己れの名を名乗らなければ、氷河に対して自らの権利を主張することができないと考えたからのようだった。 自らの名を名乗ったハーデスが、名乗り終えるなり、 「瞬は、余のものだ」 と、瞬に対する権利を主張してきたところを見ると。 「冥府の王ハーデス? 神だと?」 「その通りだ。畏れ入るがいい、人間」 『畏れ入るがいい』と言われても、氷河は、神に会うのは これが初めてではなかったし、神を倒したこともあった。 何より 日々 女神アテナに接することで、氷河は、神を見慣れてもいた。 氷河にとって、“神”は畏れ入るほどのものではなかったのだ。 「そんなことができるわけないだろう。瞬は可愛いから、神でも血迷うのは仕方がないが、瞬は俺の恋人だから、変なちょっかいを出さないでもらおう。だいいち、貴様はアテナの敵なんだろう? おまけに、その怪しげな黒づくめの姿」 「黒づくめだから、どうだというのだ。余は、アテナと仲が悪いわけではないぞ。余がアテナの敵なのは事実だが」 「アテナと仲が悪いわけではないが敵? まわりくどい言い方をするな。結局アテナの敵なんじゃないか。瞬はアテナの聖闘士。貴様がアテナの敵なのなら、瞬の敵でもある。ヨのものも酢の物もあるか!」 「そうなのだ。余は、余の瞬がアテナの聖闘士だと聞いて、清らかで美しい瞬の魂が 血で汚れていることを案じ、ここまでやってきたのだ。幸い、それは杞憂だったが」 「……」 どうも話が噛み合わない。 自分の言いたいことばかりを言う神の前で、氷河は我知らず顔を歪めることになった。 「俺の話を聞いていなかったのか? 瞬は貴様のものじゃなく俺のものだから、瞬に手を出すなと言っている!」 対峙する相手の話を聞かないという点では、氷河も人後(神後?)に落ちない。 自分の言いたいことだけを言うハーデスに、氷河もまた、自分の言いたいことだけを言い返した。 神は、もちろん人間の言うことなど聞かない。 「地上で最も清らかな魂の持ち主。余の魂の器。瞬は余のものだ。それは運命で、既に決められたこと。誰にも変えることはできぬ」 「瞬が貴様の魂の器だと?」 この神は突然 何を言い出したのか。 アテナの聖闘士である瞬が、アテナの敵である神の魂の器とは。 そんなことがあるはずがない。 ありえることではない。 ――と、氷河は思ったのだが、ハーデスはどうやら そうだと勝手に決めつけているようだった。 「その通りだ。瞬はその身に余の魂を受け入れ、余と同じものになって、この地上世界を死の世界に作り変えるのだ」 「そんなことをさせるかっ。瞬の身体なんて、この俺もまだ、ものにするどころか、じっくり見せてもらったこともないんだぞっ!」 「これは運命で決まっていることだと言ったであろう」 「運命でも、まだ実現していないなら、ただの予定だ!」 「運命というものは、そなたが自分勝手に決める予定とは違うのだ」 「やかましい!」 アテナの敵であり、瞬に害を為さんとする者であり、白鳥座の聖闘士の恋路を邪魔する者。 アテナの聖闘士の力は、これを倒すためにこそある。 氷河はハーデスを攻撃するため、小宇宙を燃やし拳を構えた。 そんな氷河を、ハーデスが黒い瞳で冷やかに見詰める。 「そなた、状況がわかっていないようだな。もう少し、周囲を見ろ。今 そなたの目に見えている余の姿は実体ではない。そなたの攻撃は無効だ。そなたの攻撃は、余の身体に いかなるダメージを与えることもできずに素通りする。余の攻撃は有効だがな」 「なにっ」 確かに神のものとしか思えない強大な小宇宙が、実体ではないハーデスの周囲に生まれ、爆発的な広がりを見せる。 その小宇宙が氷河に向かって襲いかかり、次の瞬間 氷河の身体は 城戸邸の廊下の壁に叩きつけられ――ていなかった。 自分が痛みを感じていないことを奇異に思い眉をしかめた氷河に、ハーデスが、 「瞬は今、眠っている。そなたの聞き苦しい悲鳴で、瞬の安らかな眠りを妨げるわけにもいくまい」 と、腹立たしいほどの余裕をたたえた声で言ってくる。 瞬の眠りを妨げないために、ハーデスは、氷河の身体が壁に叩きつけられる直前で、その攻撃を中断したらしい。 強大な神の小宇宙も、今は全く感じられなくなっている。 それでもハーデスは、氷河に対して圧倒的優位に立っていた。 氷河は、完全に動きを封じられていたのだ。 小宇宙も感じられず、今 この場にあるのは実体ではないというハーデスによって。 どこか――ここではない異次元から、ハーデスの力は発せられているようだった。 氷河は、大人しくしているしかなかったのである。 ここでハーデスに対抗するために小宇宙を燃やしてしまったら、白鳥座の聖闘士が瞬の眠りを妨げることになってしまうから。 白鳥座の聖闘士が冥府の王より瞬への気遣いができない男になる事態を、氷河は何としても避けなければならなかった。 氷河に抵抗の意思がないことを見てとったらしいハーデスが、氷河の身体に自由を返してくる。 これだけの力を有しているのなら 静寂のうちに白鳥座の聖闘士の命を奪うことも可能だろうに、なぜハーデスはそうしないのかと、氷河は冥府の王の振舞いを訝ることになったのである。 |