ハーデスが氷河の命を奪わず、その身体に自由を返すことまでしたのは、どうやら 彼が自らの好奇心を満たすためだったらしい。 自由になった氷河に――口をきけるようになった氷河に――ハーデスは、 「そなたは 瞬を好きなのか」 という、冥府の王とアテナの聖闘士の対決の場に ふさわしいのか ふさわしくないのか判断の難しい質問を投げかけてきた。 その質問が この場に ふさわしいのか ふさわしくないのかなどということはどうでもいい氷河が、ハーデスの質問に即答する。 「俺は瞬の恋人だと言っただろう」 「それは ただの予定であろう。そなた、自分で そう言ったではないか」 「……いらんことだけ憶えている奴だな」 忌々しげに舌打ちをして、氷河はハーデスへの不満を口の中で呟いた。 だが、今は、重要なことは聞かず、どうでもいいことばかりを しっかり聞き憶えているハーデスへの文句を言っている場合ではない。 氷河は、ハーデスが口にした“重要なこと”を、ちゃんと聞いていたし、憶えてもいたのだ。 それが、瞬に関することだったから。 「貴様、瞬の身体に貴様の魂を受け入れさせ、瞬の身体を乗っ取って、この地上世界を死の世界に作り変えるとか何とか言っていたな。そんなことをさせられると知ったら、瞬は 自分で自分の命を絶つくらいのことは 一瞬のためらいもなくしてしまうだろう。自分のせいで 多くの命が失われるなんてことになったら、瞬は きっと生きてはいない。やめろ。それだけは」 『やめろ』と言われて、『はい、わかりました』と答える敵に、氷河は これまで一度も会ったことがなかった。 当然 ハーデスも『やめない』と答えてくるものと、氷河は思っていた。 となれば、この場は何とかハーデスに退散願って、明日 アテナや仲間たちと対応を講ずるのが最善の策。 そうするしかないし、そうしなければならないと、氷河は考えていたのである。 しかし、ハーデスは、氷河の意表を突いてきた。 「やめてやってもよい」 そう、ハーデスは答えてきたのだ。 「なに?」 それは 非常に喜ばしい答えだが、にわかには信じ難い答えでもある。 思いがけない答えに一瞬 虚を衝かれ、かえって奇異の念を強くした氷河に、ハーデスは案の定、いかにも裏のありそうな条件を提示してきた。 「やめてやってもよいが、地上世界を余の支配する死の世界にすることは、神話の時代からの余の宿願。この時代だけとはいえ、その望みを断念するからには、それ相応の代償を支払ってもらわねばならぬ。余にも、神としての誇りと体面というものがあるのでな」 「代償? 貴様が瞬に手を出さないというのなら、俺は、俺の命くらい いくらでもくれてやるぞ」 瞬の命、瞬の幸福、瞬の笑顔――それこそが、氷河の守りたいもの。 そのためになら、氷河は、自分にできることは どんなことでもするつもりだった。 そのためになら、もちろん自分の命も惜しくはない。 しかし、ハーデスは氷河が口にした 彼の代償を、軽く一蹴した。 「余は冥府の王だ。そなたから くれてもらわなくても、いずれ そなたの命は余のものになる」 「俺は、この命以外には、自分のものと言えるものを何も持っていない男だ」 呻くように そう答えながら、氷河は心胆が凍りつく思いを味わっていた。 いずれ 自分の命は――すべての人間の命は――ハーデスのものになる。 冥府の王と戦うということは、そういうことなのだ。 冥府の王に戦いを挑むことは、そもそも人間に可能なことなのだろうか――? 絶望的な気分になりかけていた氷河に “希望”の姿を見せてくれたのは、どういうわけか 氷河に絶望を もたらしてくれた冥府の王その人だった。 「そう自分を過少評価するものではない。人間の肉体の命は いずれ必ず余のものになるが、心はそうはいかぬ」 「心は? では、人間は――人間の心は、たとえ死んでも貴様のものにはならないのか? だとしたら、それは人間にとって大いなる救いだな」 それならば、人間は――アテナの聖闘士は――冥府の王とでも戦うことができる。 そう思って、氷河は明るい気持ちになったのである。 心なら――心なら、氷河は既に瞬に捧げていた。 「そう。神にも人の心を奪うことはできぬ。神が人間を創った時、人間を創った神と人間の間には、人間に自由意思を与えるという契約が成立しているのだ。この契約は誰にも破ることはできぬ。冥府の王である余にも、人間を創造した神にも」 「ならば、やはり俺には、貴様にくれてやれるものは、この肉体の命しかないぞ」 だが、それは、遅かれ早かれ いずれはハーデスの手の中に落ちるもの。 つまり、瞬を守るためにハーデスに差し出せるものを、白鳥座の聖闘士は何一つ持っていないことになる。 氷河は、自分が ハーデスに『おまえは無価値で無意味、無そのものなのだ』と揶揄されているような気持ちになってしまったのである。 だが、そうではなかったらしい。 ハーデスは、氷河の持ち物の中に欲しいものがあったらしい。 ハーデスは、それを渡せと氷河に要求してきた。 「そなたの肉体も そう出来の悪いものではないが、余の好みではない。そなたが持っているものの中で 最も価値あるものは、その情熱だな。ひたむきな――情熱。他を顧みることなく、ただ一つの目的に向かって一心に向かう、その情熱。それを余に渡せ」 ハーデスが白鳥座の聖闘士に求めてきたものの名を聞いて、氷河は 一瞬 呆けた。 冥府の王が、なぜ そんなものを欲しがるのか、氷河にはまるで訳がわからなかったのだ。 「他を顧みない情熱? そんなものに価値があるのか? 誰もが、それを俺の欠点だと言うぞ。そんなものを手に入れてどうするんだ」 「どうもせぬ。情熱を失った そなたがどうなるのか、それを眺めて楽しむだけだ。そなたが それを余に渡せば、余は瞬の身体を利用することを断念すると約束する」 「なら、やる」 「へっ?」 冥府の王ハーデスは――仮にも神であるものが――氷河のその答えを聞いて、ひどく間の抜けた声を 城戸邸の廊下の中に吐き出した。 「『なら、やる』? 『なら、やる』? ず……随分、あっさりした答えだな」 あっさりしている上に、即答すぎる。 ほとんど1秒も悩んだ様子のない氷河の承諾の返事に、ハーデスは困惑を覚えたようだった。 氷河の答えを翻させようとしてのことではないだろうが、ハーデスは 親切にも氷河に再考を促してきた。 「そなた、もう少し考えてから返事をした方がよくはないか? 情熱を失えば、そなたは これまでのそなたではなくなるのだぞ」 「瞬を苦しめないためなら、俺がどうなろうと構うものか」 氷河にとって それは、殊更 悩むようなことではなかった。 そうしなければ瞬を守ることができないというのなら――他を顧みない情熱とやらをハーデスに手渡せば、瞬が守られるというのなら――答えは一つしかないではないか。 瞬の命、瞬の幸福、瞬の笑顔――。 白鳥座の聖闘士の 他の何も顧みない情熱は、それらのものを守るためだけに存在しているものなのだから。 「その情熱。やはり価値がある」 氷河の ごくあっさりした答えが 揺らぐことのない決意だと認めたらしいハーデスは、興味深げに そう言い、そして うっすらと微笑した。 |