守りたいものは守られている。 他を顧みない情熱を冥府の王に渡す前と後とで、白鳥座の聖闘士は何も変わっていない。 氷河はそういう認識でいた。 彼は目に見える何かを失ったわけではなかったのだから、それは ある意味では 気付かずにいるのが当然の変化だったのかもしれない。 白鳥座の聖闘士の変化に気付いたのは、他を顧みない情熱を失った氷河自身ではなく、氷河に彼の情熱を傾けられていた瞬の方だった。 その日、瞬が沙織の代理で出掛けていったのは、いわゆるファッション・ショー。 年明けに成人式を迎える若い女性をターゲットにした複数のクチュール店の合同ファッション・ショーだった。 出品される衣装はすべて、振袖を解体・再縫製したレディース向けドレスやスーツ。 要するに、成人式で着た着物を そのまま箪笥のこやしにせず再利用しようというコンセプトのショーだった。 そんなものに興味はないのだろうが(実は瞬も そんなものに興味はなかったのだが)、いつものように氷河が瞬のお供に名乗りをあげ、二人は その資源再利用イベントに出掛けていったのである。 そこまでは、いつも通りだった。 しかし、そのイベントから帰ってきた時、氷河と瞬の様子はいつもとは違っていた――特に 瞬の様子が、いつものそれとは全く違っていたのである。 「なんだよ、瞬、その顔。外出先で、氷河がまた何か馬鹿な真似をやらかしたのか?」 コートを脱いでラウンジのソファに腰をおろし、しきりに首をかしげている瞬に そう尋ねたのは、『聖衣のファッション・ショーなら、招待状がなくても行くけどさー』と言って留守番を決め込んでいた星矢だった。 『聖衣のファッション・ショーなら、モデルだって喜んで務めるよ』と言いながら出掛けていった瞬の答えは、 「あ、ううん。氷河、今日は 何もやらかさなかったの」 というもの。 「へ? なら、なんで そんな顔してんだよ」 氷河が何もやらかさなかったのなら、それは実に結構なことである。 氷河との外出から帰ってくるたび いつも、その顔に疲労の色か苦笑を浮かべている瞬を見慣れていた星矢は、瞬の その答えを思い切り訝ることになった。 外出先で 氷河が何もやらかさなかったのなら、瞬は その奇跡を喜んでいていいはず。 にもかかわらず、今 星矢の前にある瞬の顔は、トラブルのなかった外出に安堵するどころか、困惑の気配を色濃く浮かべていたのだ。 訳がわからず顔をしかめた星矢に、瞬が、今日の出来事を どこか心許ない口調で語り始める。 「僕と一緒に外出した時、知らない男の人が僕を見てたり、声をかけてきたりすると、氷河、これまではいつだって その人たちを いちいち睨みつけたり、『勝手に見るな』って突っかかっていったりして、喧嘩騒ぎを起こしてたの。なのに、今日は そういうことが2回しかなかったんだよ。僕が気付いただけでも、僕のこと じっと見てる人は10人以上いたし、モデル事務所の人だの、デザイナーの人だの、僕に声を掛けてきた人は 5、6人いたのに」 「2回しかって……」 喧嘩騒ぎなど、1回の外出に1回あれば十分である。 否、1回あるだけでも異常なことである。 それが『2回しか』なかったことに、瞬は戸惑っている――らしい。 いったい これまでの瞬と氷河の外出時の喧嘩回数のアベレージは何回だったのかと、つい星矢は瞬に尋ねてしまいそうになったのである。 その答えを聞いても疲れるばかりだろうことが察せられるので、星矢はあえて自分の好奇心を抑えつけたのだが。 「3人目以降は、追い払うのが面倒になったみたいで、氷河、ただ無視するだけだったんだ。こんなこと初めてで……こんなの変だよ」 「いや、それは あれだ。おまえに興味を持つ男に いちいち突っかかっていっても きりがないと、氷河は悟りを開いたのではないか? 信じ難いことだが、氷河にも学習能力があったんだ」 「そう……なのかなぁ……」 はたして紫龍は、氷河を褒めているのか馬鹿にしているのか。 いずれにしても、瞬は、紫龍の推察に今ひとつ得心できなかったらしい。 仲間たちの前で、瞬は、釈然としない表情で かしげていた首を更に深くかしげるばかりだった。 「やっぱり、氷河、変だよ!」 『氷河にも学習能力があった』では納得しきれずにいるようだった瞬が再び そう言い出したのは、瞬が再利用ファッション・ショーへの沙織の代理出席を平和裏に成し遂げた日の翌日の午後。 昨日より更に変な顔をして星矢と紫龍に そう告げた瞬の口調は、昨日の懐疑的口調とは打って変わった断言口調だった。 「氷河が変なのは いつものことじゃん」 と応じた星矢に、 「他の人と違うことも“変”って言うけど、いつもと違うことも“変”って言うでしょう」 と反駁してから瞬が騙り出した、氷河の今日の“変”。 それは、瞬の申告通り、“他の人と違う変”ではない“変”だった。 「僕、さっき、昨日のファッション・ショーへの代理出席が いつになく平和に終わったってことを、氷河と一緒に沙織さんに報告に行ったんだよ。そしたら、沙織さん、その報告に気をよくして、今度は某経済団体の新年の賀詞交歓会に 僕に代理で出席してほしいって言い出したんだ。お振袖は加賀友禅の超豪華なのを用意してあるとか何とか言って」 「加賀友禅? 派手な加賀友禅は 沙織さんには向いているかもしれんが、おまえには どちらかというと京友禅の 淡い色調の方が似合うだろう」 「そういう問題じゃなくって!」 本気なのか冗談なのか判じ難い紫龍のコメントを 険しい口調で、瞬が撥ねのける。 それから瞬は、なぜか急に全身から力を抜き、両の肩を落としてしまった。 「それで、僕 つい、振袖なんか着て人前に出たりしたら、兄さんに兄弟の縁を切られちゃうから、 そんなこと 死んでもできないって言っちゃったんだ。兄さんに兄弟の縁を切られたら、僕、どうすればいいか わからない……って」 「氷河のいるとこでか? そりゃ、ちょっとまずかったかもな」 「うん……。だから、僕、すぐに、氷河だって 僕がそんな恰好するのは嫌だよねって、付け加えたんだけど……」 「時 既に遅し、かぁ」 「しかし、いくら氷河でも、沙織さんのいるところで暴れ出すわけにはいかないだろう。せいぜい臍を曲げるくらいのことしか――」 「それで氷河が暴れ出したとしても、僕は氷河が変だなんて思わないよ……」 「?」 瞬の沈んだ声に、星矢と紫龍が揃って眉根を寄せる。 『それで氷河が暴れ出したとしても』と言うからには、氷河は瞬の兄への言及に腹を立て、沙織の前で暴れ出したわけではないのだろう。 ならば、特に 瞬が困るような事態は発生しなかったことになる。 臍を曲げた氷河をなだめるくらいの仕事(?)は、瞬には日常茶飯の事、慣れたもののはずだった。 「そうじゃなくて――だから、そんなふうに、僕が兄さんの話をしちゃったのに、氷河ってば、怒りもしなければ 不機嫌にもならなくて、それどころか、和やかに苦笑してみせたりしてたんだよ。まるで普通の人みたいに」 「そりゃあ――」 「確かに変だな」 瞬は、“変”には2種類の“変”があると言っていた。 “他の人と違う変”と“いつもと違う変”。 氷河が普通の人と同じように振舞うことは、後者の“変”である。 そして、確かにそれは変なことだった。 「それに今日は――昨日もそうだったけど、僕、氷河に『可愛い』って1回しか言われてないんだ。以前は、1日に何十回も言われて、そのたび微妙な気持ちになってたのに。何ていうか――1日に1回 言えば十分っていう感じで――その……くどくないっていうか、しつこくないっていうか、淡白っていうか――」 『淡白』 これほど氷河に対する形容として違和感のある言葉はないだろう。 瞬が“変な顔”になる気持ちは、星矢にも紫龍にもわかるような気がしたのである。 だが、それは決して悪いことではない。 氷河にも 普通の人間のような振舞いを振舞うことができたというのなら、それは いいことのはずだった。 「でもさ、おまえ、別に1日に何十回も氷河に『可愛い』って言ってほしいわけじゃないんだろ? んなこと言われてビミョーな気持ちになるのなんて、1日1回で十分じゃん。氷河は おまえのこと、『可愛くない』って言い出したわけじゃないんだし」 「それはそうなんだけど……やっぱり、氷河、何か変なんだよね……」 氷河が“他の人と違う変”なことをしなくなった。 それは悪いことではない。 むしろ、いいことのはず。 少なくとも氷河は、人様に迷惑をかけてはいない――迷惑をかけなくなったのだ。 得心できない瞬の気持ちは わかるし、星矢たちも そんな氷河に対する違和感は拭い去れなかったが、まさか氷河の常識的振舞いを非難するわけにもいかない。 ゆえに、氷河の仲間たちは、胸中に生まれた もやもやした気持ちを晴らすことはできなかった――晴らすわけにはいかなかったのである。 |