クリスマスパーティには遅く、正月の年始回りには早い。 瞬の誕生日でもなければ、彼自身の誕生日でもない。 いわゆる“なんでもない日”。 その“なんでもない日”に、だが、その男はやってきた。 「瞬が 途轍もないピンチに陥っていると感じて飛んできたんだが、まさか あの馬鹿が瞬に何かしたのではないだろうな!」 飛んできたのは、もちろん瞬の兄、フェニックス一輝である。 そして、一輝の言う『あの馬鹿』は、いわずと知れたキグナス氷河。 しかし、星矢と紫龍は、この“なんでもない日”に一輝が飛んできた訳が まるでわからなかった。 「別に瞬はピンチに陥ってなんかいねーぜ? むしろ、いつもより平和なくらいだ。あの馬鹿も大人しいもんだし。変わったことといえば、あの馬鹿に学習能力があったことが判明して、少し常識人になったくらいのもんで」 「いや、しかし、一輝が来るということは、今 瞬が相当 とんでもないピンチに見舞われているのではないか? 氷河が まともになったことは、やはり何か よくないことの前兆なんだ」 「よくないことの前兆?」 瞬と同じ屋根の下で暮らし、毎日 瞬の姿を見ている仲間たちにも、瞬がどんなピンチに見舞われているのか はっきりしていないのである。 最愛の弟に危険が迫っていると本能で(?)感じて飛んできただけの瞬の兄には なおさら、瞬を見舞っているピンチの実像は見えてこなかった。 瞬が途轍もないピンチに見舞われているのは確かなのに(瞬の兄の本能は そうだと主張しているのに)、そのピンチがどのようなものなのか わからない。 苛立った声音で、一輝は星矢たちを怒鳴りつけることになった。 「よくないことの前兆とは、いったい何があったんだ!」 「何があった――って……。要するに、氷河がおかしくなったんだよ」 「あれがおかしいのは いつものことだろう」 「だから、氷河が いつもの氷河じゃなくなったんだ。まともになっちまったんだよ」 「……」 『おかしくなった』と言った5秒後に『まともになっちまった』。 いったい氷河は おかしいのか、まともなのか。 仲間の説明を一輝が理解できなかったとしても、それは一輝の国語力に問題があるからではなかっただろう。 状況が見えないことに苛立った一輝が、 「それで瞬は無事なのか、無事じゃないのか!」 と怒声を響かせたところに、タイミングよく瞬が登場。 「兄さん!」 ラウンジに兄の姿を認めた瞬は、その瞳を輝かせて兄の側に駆け寄ってきた。 兄の威厳と威信を保つため、一輝が ともすれば緩みそうになる目許と口許に力を込める。 言えるものなら、『相変わらず可愛いな』と言ってしまいたい。 しかし、それを瞬当人に言ってしまったら、瞬の兄失格。 一輝は、ぶっきらぼうな声で瞬に尋ねた。 「氷河の様子がおかしくなったと聞いたが」 「あ、うん……。兄さん、それで来てくれたの?」 適当に 素っ気なく恰好をつけていれば、瞬は勝手に“弟のピンチに 必ず駆けつけてくれる、強く優しく思い遣りに満ちた兄”と思い、慕い、尊敬してくれるのだから、一輝は このスタイルを崩すわけにはいかなかった。 「そうなんだ。うまく言えないんだけど……」 どう表現すればいいのか わからない ここ数日間の氷河のおかしさ。 瞬が言葉に窮した時、ラウンジに入ってきたのは、タイミングがいいのか悪いのか、噂の当人キグナス氷河だった。 そこに瞬の兄がいて、兄のすぐ側に瞬が立っている。 その光景が、氷河の視界に入る。 その瞬間に、氷河の仲間たちは 色々な意味で覚悟を決め、色々な意味で臨戦態勢に入ったのである。 が、彼等の覚悟と緊張は、完全な徒労に終わった。 氷河は、瞬が兄の至近距離にいる事態を認めても 顔色一つ変えず、怒声の一つもあげず、小宇宙を燃やすこともせず、ただ黙ってラウンジを出ていってしまったのだ。 「……」 「……」 「……」 「……」 瞬と星矢と紫龍と一輝が それぞれに それぞれの沈黙を形成する。 約1分間の沈黙のあと、瞬の兄は、 「確かに おかしいな」 と、呟いた。 この静けさ、この穏やかさは、いったい何事なのか。 兄の呟きに、瞬は きつく唇を噛みしめることになったのである。 「そうでしょう? 氷河、おかしいんだよ。こういう時、兄さんから離れろって怒鳴って、僕を兄さんから引きはがそうとするのが、普通の……いつもの氷河だよ!」 瞬の“いつもの氷河”のイメージも かなり粗略で偏ったものだったが、そのイメージは、氷河を除いたアテナの聖闘士全員の間で ほぼ共通したものだった。 興味を引かれないものにはクール。クールというより無関心。そもそも視界に入っていない。 だが、興味のあるもの、欲しいもの、愛するものに対しては、余人にどう思われようと委細構わず、なりふり構わず、食らいつき、しがみつき、執着し、そして諦めない男――というのが。 “瞬”の目や心が自分以外の人間に向いているという状況は、氷河にとっては不愉快極まりないことで、そんな場面に遭遇してしまったら、その不愉快極まりない場面を消去しなければ気が収まらず、だから どんな手を用いても必ず消去する。 そんな子供じみたことを、堂々としてのける男。 それが、氷河の仲間たちが見知っている氷河だった。 そうまでしても、人は愛する人を失ってしまうことがある。 その冷酷な事実を知っているからこそ、なりふり構わない男――というのが、アテナの聖闘士たちの知っているキグナス氷河だったのだ。 『一輝は瞬の兄だし、一輝が俺を疎ましく思っていることはわかっている。俺が 兄弟の間に入り込めるはずもないし、俺が我儘を言うと 瞬を困らせることになる。あの場は、俺が遠慮するのが最も妥当な対応だろう。瞬と一輝は血のつながった実の兄弟なんだ、仕方がない』 とりあえず 最も冷静かつ客観的に氷河と相対することができるだろうという理由で、氷河を追いかけた紫龍が仲間の許に持ち帰った氷河からの伝言――大人の分別に満ち満ちた氷河からのコメント――に、氷河の仲間たちは唖然とすることになったのである。 |