熱狂という病に罹っている氷河と真面目に対峙することを、一輝は本心では馬鹿らしいと思っていた。
馬鹿の相手をして 馬鹿を伝染されてしまっては目も当てられない――というのが、それまでの一輝の考えだったのである。
その一輝が、氷河に向かって、
「今年も そろそろ終わる。いい機会だ。氷河、そろそろ決着をつけようじゃないか」
と提案したのは、何よりもまず 彼の最愛の弟のため。
そして、人格が“普通の人”のそれになることによって、アイデンティティが崩壊しかけているとしか思えない氷河を 元の氷河に戻すためだった。
だというのに、そんな瞬の兄の気も知らず、氷河は、
「そんなことをしたら、瞬が悲しむ」
などという、真っ当まともな答えを、瞬の兄に返してきたのである。
一輝は、氷河らしからぬ真っ当、氷河らしからぬまともさに、腹を立てないわけにはいかなかった。

「怖気づいたか。貴様、俺に負けるのが恐いか」
「おまえは瞬の実の兄だ。瞬が 子供の頃から――いや、瞬が生まれた時から、おまえはずっと瞬を守ってきた。どう足掻いても、俺は永遠におまえに勝てない」
おそらく、それは事実である。
常識的で妥当な判断ともいえた。
しかし、常識的で 妥当で 真っ当で まともな その判断は、全く氷河らしいものではない。
常識的で 妥当で 真っ当で まともな氷河に、真っ先に堪忍袋の緒を切ったのは、せっかくの提案を氷河に一蹴されてしまった一輝ではなく、氷河の奇天烈な振舞いに これまで辛抱強く付き合ってきた瞬でもなく――言ってみれば、この問題の完全な部外者であるところのペガサス星矢その人だった。

「氷河! おまえ、瞬のいちばんになるのを諦めんのかよ!」
「諦めるわけではない。それは、もともと不可能なことなんだ」
「不可能に挑戦しないのかよ!」
「2番目の地位をキープするために努める」
「2番目だあ !? 」
2番目とは何だろう。2番目とは。
それは、アテナの聖闘士が目指していいようなものだろうか。
そもそも目指す価値のあるものだろうか。
2番目などに 目指す価値はない――というのが、星矢の考えで、信条で、確信で、誇りだった。
結果的に2番目になったとしても、人が目指すものは――ましてや アテナの聖闘士が目指すものは常に“いちばん”でなければならないというのが。
『2番目でいい』という考えは、戦う者にとって敗北と死をもたらしかねない危険極まりないものなのだ。

「こいつの軟弱な根性、俺が叩き直してやるっ!」
「おい、星矢。おまえが怒ってどうする」
「だって、こんなの、氷河じゃねえっ!」
「星矢、待って」
紫龍の制止を振り切ることができた星矢も、瞬のそれを払いのけることはできなかった。
瞬に 咎めるように名を呼ばれ、星矢は しぶしぶ――むしろ懸命に、振り上げていた拳を下におろしたのである。

この氷河はおかしい。
こんな氷河はおかしい。
今や、それがアテナの聖闘士たち全員の共通の認識だった。
ただ一人 氷河だけが、その事実に気付いていない――。
そんな氷河に、瞬が真正面から対峙する。
そうしてから瞬は、まっすぐに氷河の瞳を見詰め、静かな声で氷河に告げたのだった。
「氷河。僕は兄さんがいちばん好きで、僕にとっては 兄さんがいちばん大切な人だよ。当然だよね。兄さんは、これまで命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間で、その上 小さな頃からずっと僕を庇い守ってくれた、僕とは血のつながった兄さんなのだもの」
と。


「――」
いったい星矢は何を いきり立っているのか。
戦うまでもなく勝利者である一輝は、なぜ急に決着をつけようなどということを言い出したのか。
紫龍の奇異なものを見るような目。
瞬の悲しげな眼差しの意味。
それらすべての事柄の意味がわからないまま、氷河は瞬に頷いたのである。
瞬の訴えに、『それは間違っている』と言い張る論拠を 氷河は持っていなかったし、その事実に逆らうことは無意味無益だと思ったから。
「ああ」
「ああ……って……」
氷河の短い答えを聞いた途端、瞬が その瞳から ぽろぽろと涙の雫を零し始める。
「ひどい……そんなこと言うなんて……」
「ひどい――とは……」

氷河は訳がわからなかったのである。
「瞬……何を泣いているんだ……」
瞬が泣いている。
それが誰であろうと、たとえどんな理由があろうと、瞬に涙を流させるような不埒な輩は万死に値すると即断していた かつての自分を、その感覚を、氷河は憶えていなかった。
当然、瞬が泣く理由もわからない。
ただ、氷河の中から『瞬を好きだ』という気持ちは消えていなかったので、氷河は、瞬の涙に 胸を締めつけられるような痛みを感じることはしたのである。
瞬の涙の訳がわかっていないらしい仲間に苛立ったように、星矢が氷河を怒鳴りつける。

「泣くに決まってるだろ! 諦めるってことを知らず、不可能に挑戦し続けるのが、俺たちアテナの聖闘士の身上だぞ。今のおまえみたいに、限界を自分で決めて、さっさと勝ちを諦めるような奴は、自分より強い敵に対峙した時、あっさり戦うことを放棄して、大人しく やられちまうに決まってる。そんで、おまえは死んじまうんだ。瞬が泣くのは当然だろ!」
「俺が死ぬ……? 瞬は俺のせいで泣いているのか?」
「おい、氷河……。おまえ、それもわかってないのか? 本気で?」

氷河は、自分が何をしているのか、まるでわかっていない。
こうなるともう、アテナの聖闘士が頼れるものは ただ一つ。
星矢は、そこがどこで、今がいつで、彼女が呼べば来ることのできる場所にいるのかどうかさえ考えもせずに、その人の名を呼んでいた。
「沙織さーんっ !! 」
アテナの聖闘士の上に“変”が はびこる時、必ずや現われる知恵と戦いの女神アテナ。
その女神の今生での名前を。


「変な氷河が、更に変になった? 星矢、あなたは地上の平和のために戦う女神を何だと思っているの」
ぶつぶつ文句を言いながら、それでも彼女は、彼女の聖闘士たちの前に颯爽と登場してくれたのだった。






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