星矢から事の経緯を聞き、変の上に変を重ねた氷河の様子を2、3分ほど観察してから、知恵と戦いの女神は彼に命じた。 「口止めされてはいないわね? 何があったのか、おっしゃい。あなたが契約を交わした神は誰。そして、あなたは その神に何を渡し、何を受け取ったの」 「……」 アテナは白鳥座の聖闘士の様子を見ただけで、彼の身に何が起こったのか、おおよそのところを察してしまったらしい。 彼女に隠し事は無理。 氷河は、すぐにその事実に気付き、観念もしたのだが。 「瞬には知らせたくないんだが」 自分が勝手にしたことで、瞬に負い目を負わせるようなことを、氷河はしたくなかったのである。 が、そんな氷河の事情を 彼の女神は斟酌してくれなかった。 「瞬を泣かせないために、瞬の前で白状なさい」 アテナの命令に、アテナの聖闘士は逆らえない。 結局 氷河は、瞬を含む仲間たち全員の前で、すべてを白状することになってしまったのだった。 「瞬の部屋に夜這いに行こうとして、他を顧みない情熱を冥府の王に渡したーっ !? 」 それは、“変な聖闘士”の呼び名にふさわしく 実に氷河らしい行動なのかもしれないと、彼の仲間たちは まず思ったのである。 普通の人間は、夜這いに行った先で そんな馬鹿な真似はしないだろう。 「瞬と瞬の心を守るため、これは瞬の恋人になる予定の男としては当然の――」 「ああ、予定ね予定。予定で、俺たちに何の相談もなしに、んな馬鹿なこと すんなよ、この馬鹿たれがっ !! 」 氷河には当然のことでも、それは、氷河の仲間たちには全く当然のことではなかった。 氷河の仲間たちは 氷河の独断専行に一様に顔をしかめ、アテナは氷河の背後に向かって大きな声を響かせた。 「ハーデス! ハーデス、姿を現わしなさい。見ているんでしょう!」 アテナの大音声を受けて、隠れんぼの鬼に見付かってしまった子供のような顔で、城戸邸ラウンジに姿(とはいっても実体ではない)を現わしたのは、数日前 白鳥座の聖闘士から 他を顧みない情熱を奪っていった漆黒の神だった。 冥府の王だという その男に、アテナが居丈高に命じる。 「これから聖戦が始まるという大事な時に、悪ふざけは よしてちょうだい。今すぐ 氷河を元に戻しなさい!」 ハーデスにも神としての体面はあるのか、彼はアテナの命令に すぐに従うことはしなかった。 「アテナ。しかし、瞬が余の魂の器として選ばれたものであることは事実だぞ。余とキグナスの契約が破棄されれば、瞬は苦しむことになるかもしれない」 アテナは、冥府の王の言葉など 真面目に聞く振りも見せなかったが。 「どのみち、その時が来たら、一方的に契約を破棄するつもりだったくせに、何を たわ言を言っているの。たとえ瞬が あなたの魂の器に選ばれたものだったとしても、瞬はアテナの聖闘士であり続けるし、詰まらぬ契約などなくても、私たちは私たちの情熱で、必ず あなたに勝利します。あなたも あなたの従属神たちも、もう壺漬けにするだけでは済ませない。今度こそ、あなたの野望を完全に封じるわ」 地上世界を 冥府の王の支配する死の世界にすることは 神話の時代からの彼の宿願だと、ハーデスは言っていた。 今現在、地上世界が死の世界になっていないということは、つまり そういうことなのだろう。 ハーデスは アテナに勝てたことがないのだ。 これまで ただの一度も。 ハーデスは、この件に関しては、自分が退くことにしたようだった。 アテナに逆らう素振りは見せず、少々 気取りの気味の薄れた口調で、冥府の王がアテナに尋ねる。 「しかし、この男は――いや、アテナの聖闘士たちというものは どういう人間たちなのだ? 余は、この男から情熱を奪うことで、この男に理性と分別を与えてやったのだぞ。いわば、この男を常識人にしてやったのだ。にもかかわらず、そなたたちは この男が 馬鹿で無分別で直情径行で注意力散漫の視野狭窄者でいることの方を望むというのか」 「理性的で分別のある氷河なんて、存在価値がないわ。奇跡も起こせそうにないし、敵に勝てる気もしない」 「理性的で分別のある氷河に存在価値はないなんて、沙織さん、事実だとしても、きっついこと言うなー。ひでー」 「まったく。そなたたち、こんな女神の下で よく我慢ができているものだな。聖域の労働環境は劣悪だろうに。いっそ冥界軍に転職せぬか?」 「ハーデス! 悪ふざけはやめろと言った私の声が聞こえなかったの !? 」 アテナの叱責に、ハーデスが、それでなくても逆立っている髪を更に逆立てて 身震いしてみせる。 彼は すぐに その顔と所作を冷然とした冥府の王のそれに作り替えた。 「では、次に相まみえる時には、シリアスに真面目に戦うことにしよう」 「ええ。シリアスにね」 不気味な漆黒の神に、アテナが不敵に頷く。 そうして ハーデスは、神と神のやりとりを あっけにとられたように見詰めている瞬の上に 名残惜しげな視線を投げ、やがて首をかしげ かしげながら アテナの聖闘士たちの視界の内から消えていったのだった。 「え? これだけ? これだけで氷河は元に戻ったのかよ?」 あまりに あっさり引き下がったハーデス。 戯れ言を言い合っているようだった神と神の会話。 星矢の疑念は当然のものだったろう。 だが、本当に“これだけ”で、氷河と冥府の王の契約は白紙に戻ったらしい。 沙織が氷河に、 「気分はどう」 と尋ねると、氷河は、 「頭の中に急にいろんなものが飛び込んできて、ごちゃごちゃしている」 という、実に頼りない答えを返してきた。 沙織が氷河に重ねて問う。 「そのごちゃごちゃした頭で考えて、答えなさい。さしあたって今、あなたのいちばん大切なものは何? 地上の平和? 人類の存続? 私の身の保全? 戦いに勝利すること? 仲間との友情?」 「それは、もちろん瞬だ。瞬が生きていて、幸せで、笑っていてくれること」 「OK。元通りね」 「OKなのかよ!」 それは、“変”であることを身上にしている白鳥座の聖闘士に ふさわしい、実に氷河らしい答えなのかもしれなかった。 しかし、同時にそれは、星矢でさえも、アテナの聖闘士がそれでいいのかと悩むような答えだったのである。 が、沙織は それで満足らしい。 彼女は、アテナの聖闘士は これでいいのだと言わんばかりに堂々と 星矢に頷いて、星矢に激しい頭痛をプレゼントしてくれたのだった。 |