それは、雪でも 雷でも クマでも 爆弾でもない何かだった。
それが本当に空から降ってきたから――俺には そう見えたから――俺は最初 それを生き物だとは思わなかった。
生き物だったとしても、巨大な鳥か 巨大なコウモリ――少なくとも、それは尋常の人間の動きじゃなかった。
だのに――なのに、それは人間だったんだ。
人間の姿をしたものだった。
それも、大人じゃなくて、男でもなくて――中学生か高校生の女の子。

「あ……あ……」
「子供 !? どうしてこんなところに !? 」
驚きのあまり口もきけずにいる俺を見て、その子は叫んだ。
絶対に俺より年上の その人を、俺が“お姉さん”じゃなく“女の子”っていう言葉で考えたのは、その人の目が大人のそれじゃなかったから。
あの状況でよく、あの人の目の佇まいに まじまじと見入っていられたもんだと、自分でも思う。
でも、あの時、あの目から、俺は視線を逸らせなかったんだ。
俺を見詰める その人の瞳は、大きくて綺麗で澄んでいて――何ていうか――きらきらしてた。
陰りみたいなものが全くなくて、明るくて――本当に、夏の陽光を受けて輝いている澄んだ泉、不思議に透明な色をした魔法の湖みたいに、きらきら輝いていたんだ。

俺を子供呼ばわりしてくれたけど、その人は 俺よりちょっと背が高いくらい。
子供の俺から見ても、子供――少なくとも大人じゃないものだった。
それとも、目が あんまり綺麗だから――俺くらいの歳の子供より、赤ん坊より、澄んで綺麗だから、俺が勝手に そう感じてしまってるだけなんだろうか――。
その人の瞳の中で、俺は ぼうっと そんなことを考えていた。
そこに、
「アンドロメダ、臆したか! 逃げても隠れても無駄だぞ!」
っていう、大人の男の声が降ってきた。
やっぱり、どこか高いところから。

アンドロメダ――それが この人の名前なんだろうか。
それって銀河の名前だよな。
この人は、日本語を話してるのに――日本人に見えないこともないのに――外国人なんだろうか。
そして、誰かに追われて、逃げている?
そんなことを 混乱した頭で考えていた俺に、その人――アンドロメダさん?――は、優しく いたわるような声で、
「ここを動かないで。すぐに戻るから」
って言って、そして、
「クロスがあれば……」
と、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いた。
それから、
「逃げも隠れもしないよ!」
って言ったかと思うと、俺の目の前から飛び立った。

ほんとに飛んだんだ。
翼もないのに。
まるでジェット噴射機でも装着してるみたいに。
その人が飛び立つと すぐに、何かが ぶつかったり爆発したりし始めて――。
それは 確かに俺の目の前で起こっているのに、何もかもが あんまり速すぎて、俺には 何が起こっているのか、全然 わからなかった。
何か――爆音と大人の男の絶叫が混じったみたいな音がして、その人が俺のところに戻ってきてくれたのは、それから30分後――いや、もしかしたら実際は5分くらいしか経っていなかったのかもしれない。
寒さのせいなのか、混乱のせいなのか――ただ、恐怖のせいじゃなかったとは思う――雪の上に尻餅をついて がたがた震えていた俺に、その人は、
「寒いの?」
って、幼稚園の先生みたいに優しく訊いてくれた。

恐くて震えてるんだと思われたくなかった俺は 一度大きく頷いて――そしたら、その人は俺を抱きしめてくれた。
ふわっと、両手で。
途端に、俺の周囲は春みたいに暖かくなった。
比喩じゃなく、本当に暖かくなったんだ。
今でも憶えている。
俺と その人のいる場所の雪が融けて、土が顔を出して、緑の下草が姿を現わし、小さな紫色のスミレの花が咲いたこと。
その人は、俺を抱きしめたまま、
「あっちは大丈夫かな」
って、独り言みたいに言って――俺は その人の胸の中で、どこか遠いところから響いてくる爆音を聞いたような気がした。
本当に 気のせいだったかもしれないけど。

俺は、その人に、
「どうして こんなところにいるの?」
と訊かれて、うまい嘘も思いつけずに、
「家出してきた」
って答えた。
「家出? どうして? 何か つらいことがあったの?」
「……」
俺は、本当のことは言いにくかったんだ。
その人は、すごく心配そうな声で俺に訊いてくれてた。
その人に そんなふうに訊かれて初めて、俺は、俺の家出の理由が人に堂々と訴えられるような立派なものじゃないことに気付いたんだ。
でも、この人に嘘は言えない。
だから、
「お年玉が少なかったから」
って、俺は正直に答えた。

「え……」
普通の大人なら怒るよな。
そんな理由で家出して、あげく こんなところで遭難しかけてたら。
でも、その人は怒らなかった。
小さな声で短く笑って、
「それを つらいことだと思っちゃだめだよ」
って言ったんだ。
その人の言葉の意味が わかったわけじゃない。
その時には わからなかった。
でも、その人がとっても優しい声で そう言うから、俺は素直に 泣きながら頷いた。

「この山を下りよう。こんなところに、そんな恰好でいたら、凍えてしまうよ。大丈夫。僕が連れていってあげるから、泣かないで」
そう言われて、俺は顔をあげて、初めてまともに その人の顔を見た。
最初の出会いの時は、俺は その人の目しか見えてなくて――改めて見てみたら、その人は すごく綺麗な人で、目のせいで すごく可愛く見えるんだけど、すごく綺麗な人で、俺はしばらく ぼうっと見とれていたと思う。
スズキのことなんて、すっかり忘れて。

そうして、その人は俺を抱き上げて――すごく華奢な人なのに軽々と俺を両手で抱っこして、そして飛んだんだ。
俺には そう感じられたけど、実際は その人は空を飛んでるわけじゃなく、三段跳びするみたいに地面を蹴って跳躍しているだけみたいだった。
立ち並んでいる木にもぶつからず、ぴょんぴょんと。
1回の跳躍で20メートルくらい――かな。
とても尋常の人間にできることじゃない。
俺が その人を宇宙人だと思っても不思議じゃないだろう。
その人は、俺とスズキが1時間半くらいかけて登ってきた道を5分もかけずに飛んで――気が付くと、俺は駅前の広場のトレッキングコースの案内板の前に立っていたんだ。


「ここまで来たら、一人で歩いて お家に帰れる?」
その人に訊かれて、俺は首を横に振った。
一人で帰ることはできるけど、歩いて帰ることはできないから。
それに、スズキのことを思い出したから。
「俺、K町から来たんだ。スズキと一緒に」
「スズキくん? じゃあ、君は お友だちと一緒に家出してきたの?」
俺の今更ながらの告白を聞いた その人は、にわかに心配そうな顔になった。
それから少し何か考え込む素振りを見せて、俺の手を引いて 駅の隣りにある観光協会の事務所のビルに俺を連れていった。
そこのドアを開けた途端――俺は、そこで スズキの姿を見付けた。
そこにスズキがいたんだ。
誰か――俺の知らない背の高い男と。

「スズキ!」
それまでスズキのことをすっかり忘れていたことが気まずくて、申し訳ない気にもなって、俺はスズキの側に駆け寄った。
「タナカ!」
多分、状況的には、スズキも俺と似たりよったりだったんだろう。
「無事だったんだな!」
と俺に言うスズキの顔にも、気まずさみたいな、困ってるみたいな、そんな感情が見え隠れしていたから。
「スズキくんと、ベンチに掛けて待ってて」
その人は 俺にそう言って、事務所のカウンターの方に行って、そこにいる人と何やら話し始めた。
その段になって、俺は――俺の心は やっと、何て言えばいいか――夢幻の世界から地上世界に戻ってきたんだ。

きっと母さんに怒られる。
でも仕方がない。
俺たちは助かった。
そんなことを考えていたような気がする。
しばらくしたら 事務所の人が俺とスズキのところに来て、俺たちの名前と住所と家の電話番号を訊いてきて――俺は訊かれたことに答えたんだろう。
そのあとのことは、よく憶えていない。
現実世界に戻ってきた安心感、緊張感の解消。
そんなものに誘われて、俺は 事務所のベンチで眠り込んでしまったから。






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