城戸邸には、客間と呼ばれる部屋が4つある。
アテナの聖闘士たちが連れていかれたのは、その4つある客間の中で メイドたちが『第一』と呼んでいる部屋だった。
よほどの重要人物か、秘密裡に会談を行ないたい相手を通す部屋である。
客人は、どこぞの国の大臣、将軍クラスの人物、へたをすると神――なのだろうか。
様々な可能性を考えながら、アテナの聖闘士たちは緊張した面持ちで、この屋敷の住人である彼等でさえ滅多に入ったことのない その部屋に足を踏み入れていったのである。

そこにいたのは、一人の若い男だった。
おそらく アテナの聖闘士たちと同年代、どう見ても政財界の大物ではない。
小宇宙が感じられないところを見ると、神や その配下の者でもない。
アテナの聖闘士たちに言わせれば、いわゆる一般人。
にもかかわらず、彼は特別な人間だった。
なにしろ、そこにいたのは、どう見ても氷河その人だったのだ。
「え……えっ !? 」

ダークグレイのシルクのスーツに、黒のネクタイ。
いわゆる略礼装。
落ち着いた出で立ちが地味に見えないのは、髪が輝くような金色だから。
瞳の色も、氷河と同じだった。
氷河と同じなのは“色”だけではない。
身長も、顔の造作も全く一緒。
体格も、聖闘士である氷河ほどではないにしろ、一般男性としては かなり鍛えてあるらしく、着衣の状態では氷河との差異を指摘することは困難。
幸い、無造作を極めている氷河の髪とは異なり、客人(?)は その髪を きちんと整えていたので、氷河の仲間たちにも かろうじて二人の区別はついた。
が、それは、髪型が同じだったら二人の区別がつかないということ。
それほど、客人と氷河の外見は同じものだった。
星矢の言う“何も言わず、何もせずにいれば、世紀の二枚目”が、そこにいた。

「ひょ……氷河、おまえ、実は双子だったのかよ…… !? 」
「そんなはずはない」
自分と同じ姿の持ち主が そこにいることを、いったい氷河はどう思っているのか。
どもる星矢に答える氷河の声には、全く落ち着いたものだった。
とはいえ、だからといって、氷河が この事態に驚き 慌てていないとは言い切れない。
彼は まだ・・驚いていないだけなのかもしれなかった。
氷河は、なにしろ、自分が興味のないことには、仲間たちも呆れるほど 反応が鈍いのだ。

「沙織さん……」
瞬が不安そうに沙織の名を呼んだのは、客人の表情が全く友好的でなく、その眼差しが異様なほど冷やかだったから――だったろう。
長い溜め息を一つ吐き出してから、沙織が、彼が何者であるのかを――社会的に どういう立場の人間であるのかを、彼女の聖闘士たちに伝えてくる。
「彼の名は、レフ・アントノヴィッチ・ロモノーソフさん。モスクワ大学の基礎医学部の学生さんよ。お父様はその総長を務めていらっしゃるわ」
「んなこた、どうでもいいよ。俺たちが知りたいのは、この兄ちゃんが なんで こんなに氷河に そっくりなのかってことだよ!」
「それは……」

沙織が急に声をひそめる。
彼女が彼を この客間に通したのは、彼の父親が重要人物だからではないようだった。
「これは、くれぐれも他言無用よ」
と念押しして、沙織はレフ・アントノヴィッチ・ロモノーソフ氏の驚くべき正体を口にした。
「彼は、氷河のクローンだそうよ。彼はそう言っています」
「クローン?」
これほど そっくりな二人が赤の他人であるはずがない。
赤の他人である方がおかしい。
氷河の仲間たちは そう思っていた。
最も可能性が高いのは、一卵性双生児。
ただの兄弟が ここまで何もかも同じはずがない――と。

しかし、クローンとは。
これほど そっくりな二人を同時に視界に収めながら、それでもアテナの聖闘士たちは、その可能性だけは ちらりとも考えていなかったのである。
なぜ その可能性を考えていなかったのか。
その理由を沙織にぶつけていったのは、紫龍だった。
「それはおかしい。氷河のクローンというからには、彼は、氷河の体細胞から作られたものだということだ。氷河の体細胞を卵に移植する作業が いつ為されたのかは知りませんが、彼は当然、氷河より年下でなければならない。10歳の氷河の細胞から作られたのであれば、彼は氷河より10歳以上年下のはずだ。しかし、彼は氷河と大して歳が違わないように見えます」

だから彼が氷河のクローンであるはずがないと、紫龍が主張する。
そんな紫龍に、沙織は まず頷き、その後、ゆっくりと首を横に振った。
「彼は、氷河が胎児だった時に、その細胞を取り出して受精卵を作り、代理母の胎内に移植して生まれたクローン――ということらしいわ。彼は氷河より年下よ。ただし、数ヶ月だけ」
「数ヶ月?」
「彼の形式的なお父様が まだモスクワ大学基礎医学部の学部長だった時、氷河の体細胞の核を移植した卵を自分の妻の子宮に収めたのだそうよ。大学に入った際、彼は お父様から その事実を打ち明けられたのだとか」
「それは……ロシアでは法的に問題はないんですか」
「ないわけがないわ。もちろん、すべては秘密裡に行なわれたわ。氷河のお母様にも知らせずに。氷河のお母様は 自分の息子のクローンが作られたことなど知らなかった。子供を産むことのできない女性に 自分が息子を与えたことなど、彼女は知りもしなかったでしょう」
「氷河の母親も知らないうちに……?」
「おかしな話ね。歳が離れていない方が、クローンであることを疑われる可能性が低くなるのよ。だから、彼のお父様は、卵移植を急いだのでしょう。そうして 彼は、彼のお父様とお母様の実子として育てられた」
「……」

技術的に可能なことは知っている。
理論は確立されているし、人間以外の動物で その成功例があることも知っている。
ゆえに、氷河の仲間たちには、そんなことはあり得ないと言うことはできなかった。
もちろんアテナにも、氷河にも。
実際に それが為されたのだとしたら――既に為されたことを、今になって とやかく言っても始まらない。
問題は、その氷河のクローンが、なぜ ここにいるのかということだった。
氷河の仲間たちは、その視線を ゆっくりと氷河のクローンの上に投じたのである。
彼がここにいる訳を、知るために。

しかし、それは ひどく訊きにくいことだったのである。
多くの国でクローン人間を作ることが禁じられているのは、その存在に倫理的な問題があるからである。
そういう問題を我が身に負っている人間に 軽々しい質問を投げかけて、彼を傷付けることになってしまったら。
氷河の仲間たちは、そうなることを恐れていた。

「沙織さんは、どうお考えなんです」
氷河のクローンではなく沙織に――否、女神アテナに――紫龍が そう尋ねたのは、彼女が ある意味では人間を超越した存在だったから――だったろう。
彼女の答えは、神らしくドライなものだったかもしれない。
が、同時に、人間の考えとしても さほど突飛なものではなかっただろう。
「私は、そういう問題に関して――いいえ、この件に関して、倫理的にどうこうと言うつもりはないの。命は、それがどういう経緯で生まれたものでも、等しく大切なものだと思うわ。現に、氷河とロモノーソフさんは、違う心を持った独立した二人の人間として、確かに ここにいる。その命を、心を否定する権利を持つ者はいないでしょう」

沙織の その意見には、氷河の仲間たちも異論はなかった。
既に 生まれ、生きて、独自の心を持ち 存在している人間に、『おまえはコピーにすぎないのだから、オリジナルほどの価値はない』『おまえはコピーなのだから、消えてしまえ』と言うつもりはないし、言うこともできない。

彼の両親――実の両親に関しても、今になって 問題を提起することは無意味である。
人の親というものは、自分の遺伝子を持つ子を愛するのか、慈しみ育てた時間を愛するのか。
氷河の母親が今も生きていたら、彼女は、我が子のクローンをどう思うのか。
それは察することの難しい問題だが、現実問題として、彼女は既に亡くなっているのだ。

「彼の現在のご両親は、彼を我が子として愛し育てるために 彼を作った。そして 現に彼を愛している。そういう意味では、どんな問題もない。問題があるとすれば、それは、氷河とロモノーソフさんの心の中に――」
沙織が 続く言葉を口にしなかったのは、“問題”があるから 氷河のクローンはここにいるのだと、彼女が考えているせいだったろう。
氷河のクローンは、しかし、沙織が言わずに済ませた言葉を、にこやかに受け流した。

「私は、私の両親を愛していますし、現在の境遇も恵まれたものです。自分が ある人間のクローンだということについて、私には特段の感慨も抱いてはいません。私は私の命を愛している。ただ興味があって――純粋に好奇心から、私は日本に来たのです。私のオリジナルがどのような人生を送っているのか、私より優れているのか、恵まれているのか、私は それを知りたいと思った」
「日本語……」
ロモノーソフ氏が口にしたのは、日本語だった。
それも、かなり流暢な。
発音にもイントネーションにも、全く不自然なところがない。

てっきり彼は日本語を解さないものと思い込み、そのつもりで沙織と話していた氷河の仲間たちは、彼の見事な日本語に 少々虚を衝かれることになったのである。
彼の存在を否定したり、彼自身を貶めるようなことを言ってはいないつもりだったが、それでも。
アテナの聖闘士たちの動揺を見てとって、氷河のクローンが その唇に薄い微笑を浮かべる。
「数ヶ月前、私は、私がクローンであること、私のオリジナルが日本にいることを、父から知らされた。その翌日には、私は来日を決意していました。私のオリジナルがロシア語を解することは知っていましたが、来日した際、私のオリジナルの周囲の人間に 知らない言語で陰口や内緒話を口にされるのは不愉快なので、急いで日本語をマスターしました」

「……」
氷河のクローンは、氷河と同じ遺伝子を持ちながら、やはり氷河とは違う人間だと、その言葉を聞いて、氷河の仲間たちは思うことになったのである。
オリジナルの氷河は、他人が自分をどう思おうと、他人が自分について何を言おうと、そんなことは全く気にしない男だった。






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