それは さておき。 僅か数ヶ月で日本語を ここまでマスターしたというのなら、彼の言語習得の能力は かなり高いものである。 もしくは、彼は相当の努力家である。 それは決して非難すべきことではないし、むしろ称賛すべきことだろう。 だが、彼の日本語習得の動機を聞いた限りでは、彼は あまり素直な人間ではない。 どちらかといえば、かなり猜疑心の強い人間のようだった。 その猜疑心の強い男が、それまで腰を下ろしていたソファから立ち上がる。 「私は、私のオリジナルに出会ったら、彼を妬むものと思っていたのですが」 氷河のクローンは 彼のオリジナルの正面に対峙すると、唇の端を軽く上げて、微かな笑い声を洩らした。 「まさか、クローンである私の方が、オリジナルに対して優越感を抱くことになろうとは」 猜疑心の強い男は、どうやら かなり嫌味な男でもあるらしい。 他人が自分をどう思おうと、他人が自分について何を言おうと、そんなことは全く気にしない氷河は、冷静なのか鈍いのか、本当に関心がないのか、彼のクローンの言動に ほぼ無反応。 氷河のクローンの発言に、氷河より早く、そして露骨に 不快の念を示したのは、クローン人間が抱えている倫理問題などには興味がないので、それまで だんまりを決め込んでいた天馬座の聖闘士だった。 「嫌味な野郎だな!」 日本語で、ゆっくりと、大きな声で、星矢は そう言った。 もちろん、氷河のクローンに聞かせるために。 「こいつ、おまえと遺伝子が同じだけの他人だろ。無視しろ無視。俺たちとは関わりのないところで、勝手に生きてりゃいいんだ。手土産の一つも持ってこないような客に 用はねえ」 そう言い放って、星矢が実際に踵をかえしかけたのは、そうすることで、氷河を この客間の外に連れ出そうとしてのことだったろう。 氷河のクローンは、彼のオリジナルに対して、全く友好的ではない。 彼が、彼のオリジナルと“仲良く”なるために 日本にやってきたのでないことは明白だった。 「星矢……!」 星矢の意図はわかっていたのだが、瞬は星矢を その場に引きとめた。 「星矢。でも、この人は、氷河の……氷河の肉親だよ。僕たちが勝手にそんなことを言うのは――」 瞬が 異国からの来訪者を『肉親』と言ったのは、彼に対して『クローン』という言葉を使いたくなかったから。 氷河はどうしたいのか――。 瞬は、自分の横に立つ氷河の顔を見上げ、気遣わしげに見詰めた。 氷河が、そんな瞬を見おろし、見詰め、その手を握りしめて、ごく微かな笑みを作る。 氷河は、他人が自分をどう思おうと、他人が自分について何を言おうと、そんなことは全く気にしない男だったが、“他人”でない者が――特に 瞬が――自分をどう思っているのかということは、彼にとっては常に非常に重要なことだったので――自分のせいで瞬が胸を傷めるのは、彼の本意ではなかったのだ。 氷河のクローンが、氷河と彼の仲間たちの そんな やりとりを 冷やかに眺めていた。 氷河が瞬のことしか気にしていない様を見て――氷河が 自分のクローンに無関心でいること、自分のクローンの出現に全く動じていないことを確かめて――星矢は、この場に氷河が い続けても大した問題は生じないと判断した。 氷河の嫌味なクローンを一度 きつく睨みつけてから、彼は沙織の方に向き直った。 「沙織さん、なんで こんなのを連れてきたんだよ! まさか、生き別れの肉親同士の感動の再会を演出しようなんて、馬鹿なこと 考えたわけじゃないんだろ!」 「その可能性皆無と思っていたわけではないのだけれど……」 「そんな可能性があるわけないだろ! 氷河の肉親は、氷河のマーマだけだ!」 それは星矢個人の勝手な決めつけではあったが、自分と同じ姿の持ち主に対する氷河の無感動無反応を見る限り、『そうと決めつけることはできない』と反論することの難しい決めつけでもあった。 少なくとも氷河は、彼の母親以外の肉親を望んではいない――受け入れるか否かは さておき、望んではいない。 アテナとアテナの聖闘士たちは、そう思っていた――現在の氷河の態度様子が、彼等の目には そう映っていた。 「そう……ね。二人は既に 別々の自我、個性、生活環境、人生の目的を持っている二人ですものね。ただ、彼の存在を知ってしまったからには、氷河に このことを秘密にしておくこともできないでしょう。ロモノーソフさんは、氷河に会うために、わざわざロシアから日本にまでいらしたのだし……」 「ああ。氷河に会うためだろうさ。氷河がどんな奴なのかを確かめもせずに、とにかく氷河を見くだして、自分の存在意義を確認するためにな!」 「――」 “氷河に会うために、わざわざロシアから日本にまでいらした”当人の前で 星矢が吐き出した言葉――暴言といっていい言葉――を、沙織が たしなめなかったのは、星矢の暴言が 正鵠を射たものとまではいかなくても 幾許かの真実を含んだ推察だと、彼女が考えていたからだったろう。 レフ・アントノヴィッチ・ロモノーソフ氏は、彼のオリジナルを自分より下位にいるものだと決めつけ、そうすることで 相対的に自分の価値を高めるために、“わざわざロシアから日本にまでいらした”のだ。 “自らのオリジナルを自分より下位にいるものだと決めつけ、そうすることで 相対的に自分の価値を高めるため”。 自身の来日目的を そうだと断じられても、氷河のクローンは氷河の仲間たちに反論してはこなかった。 それが事実だったからなのか、的外れなものだったからなのか、あるいは、その目的を正当なものだと考えているからなのか。 ともかく、彼は、星矢の断定に動揺した様は 毫も見せなかった。 落ち着いた様子で、星矢たちに尋ねてくる。 「君たちは、私のオリジナルの友人か」 「仲間だよ」 「育ちが悪そうだ」 無礼、傍若無人という点では、氷河のクローンも星矢に負けてはいなかった。 彼の言葉に、星矢が 思い切り むっとした顔になる。 「その通りだけど、それで何か問題があんのかよ」 「ないと言うつもりか」 それ以上、育ちの悪い有象無象の相手をする気はないというように、氷河のクローンが、再び 彼のオリジナルの上に視線を巡らせる。 そして彼は、同情に耐えないという態度で、彼のオリジナルに 一つの提案をした。 「この私のオリジナルが、こんな下賤な者たちと交わっているとは嘆かわしい限りだ。もし君が望むなら、私は君を我が家に迎えるが、どうだ? 我が家は、ロシアでは名誉ある名門。父は高名な医者で、政権がどれほどダイナミックに変わっても、どの政権時にも、その地位が揺らぐことのなかった人物だ。我がロモノーソフ家は、常に上流社会の一員であり続けた。経済的にも、ロシアでは、10指とまではいかないが20指には入る。失礼だが、君は地位にも財にも恵まれているわけではないようだ」 「俺はそういうことには興味がないんだ」 クローンの提案をあっさり一蹴した氷河を見て、もしかしたら氷河は 実は本当にクールな男だったのではないかと、氷河の仲間たちは疑ったのである。 クールというより、冷淡。 クローンの来日目的を承知した上で そう言い切ってしまうのは、無慈悲でさえある――と。 氷河のクローンが 僅かに唇の端を引きつらせ――もしかしたら初めて、彼の作り笑いは 揺らぎ、崩れた。 「……孤児でも、グラード財団総帥の屋敷で暮らせているのなら、我が家からの援助も不要か。私は、私のオリジナルが、無一物の分際で グラード財団総帥に寄生していると知り、謝罪と礼を伝えるつもりで この家を訪ねてきたのだが――」 「その必要はない。謝罪も礼も、必要なら俺が自分で言う」 「……!」 氷河のクローンが 彼のオリジナルを憎々しげに睨んだのは、氷河が 素直に(?)彼のクローンに見くだされてやらなかったからだったろう。 彼は、自分が見くだしたい相手に 逆にプライドを傷付けられてしまったのだ。 「持たざる者の開き直りというものは、実に痛々しいものだな」 それは、氷河のクローンの せめてもの皮肉、精一杯の負け惜しみだったのかもしれない。 屋敷の主人に辞去の挨拶もせず、氷河のクローンが客間のドアに向かって歩き始める。 沙織は慌ててメイドを呼び、客人を玄関まで案内するよう命じなければならなくなってしまったのだった。 |