瞬だけを誘った控室に、当たりまえのような顔をして入ってきた瞬の仲間たちを見ると、ロモノーソフ氏は彼等を部屋から追い出すことはせずに、
「私は育ちの悪い者たちとは同席したくないのだが」
と、開口一番に言った。
「育ち育ちって、そればっか言うけどさ、あんたには それ以外にも誇れるものがあるだろ!」
星矢は、ほとんど何も考えず 直感で、常に鋭く真実を衝く。
この場合は、『それ以外に誇れるものはないのか』と言わないところが、星矢の鋭さだったろう。

ロモノーソフ氏は、確かに、育ち以外にも他に勝るものを数多く持っていた。
その美貌、均整のとれた体躯、氷河と同じ遺伝子でできているのなら、その運動能力も人後に落ちるものであるはずがない。
クローンを作ってのけるほどの知識と行動力を持つ彼の父親が、我が子として育てる人間に、わざわざ劣等の遺伝子を持つ者を選ぶわけがない。
ロモノーソフ氏の父親は おそらく、彼に選び得る中で最も優秀な遺伝子を持つ子供を選んで、彼の息子を作ったのだ。
美しく、健康で、知能も秀で、危険な病の因子も持たない、最も優秀な遺伝子を。

「星矢……!」
ロモノーソフ氏に重ねて言葉を投げつけようとする星矢を、瞬は慌てて やめさせた。
ロモノーソフ氏には、育ち以外にも誇れるものがある。
その事実は、だが、かえってロモノーソフ氏の心を頑なにしかねない。
星矢のその訴えは、『ロモノーソフ氏の父親が 我が子を作るために 優秀な遺伝子を選んだ時、はたして彼に愛情はあったのか』という重大な問題をはらんでいる。
それはロモノーソフ氏の父親以外の誰にも わからないことなので――瞬は、その件には触れたくなかったのである。
瞬の望みは、あくまでも、氷河と氷河のクローンの心の安寧だったから。

「氷河。つらいことを思い出させてしまうけど、ごめんね」
氷河に そう詫びてから、瞬は、氷河と同じ顔を持つ男の方に向き直った。
氷河と同じ色、同じ佇まいをしたロモノーソフ氏の瞳に しばし気後れしてから、意を決して、瞬は口を開いた。
「ロモノーソフさん。あなたは ご存じないことだと思いますが、氷河は、これまで幾度も幾つも つらい経験をしてきたんです。お母様を亡くし、師を亡くし、友を亡くし、孤児で――経済的にも恵まれてはいなかった。贅沢なんか、したこともなかった。一般的な価値観で判断すれば、あなたは氷河より はるかに恵まれている。それでいいでしょう」

それでいいと、ロモノーソフ氏も思っていた――思おうとしていたに違いなかった。
日本に来て、実際に彼のオリジナルに出会うまでは。
会わずにいればよかったのに、だが、彼は氷河に会ってしまった。
そのために、彼は激しい葛藤に苛まれることになったのだ――おそらく。

「私のオリジナルは――氷河は、そう思っていない。彼は 自分の方が恵まれていると、自分こそが世界で最も幸福な人間だと思っている。あなたがいるから」
「あなたは、氷河に羨ましがられないと気が済まないの? 氷河を傷付けたいんですか」
「私の才能は氷河からもらったものだ。私は彼のコピーでしかない。こんな屈辱があるか」
「氷河ではなく、あなたがオリジナルだったなら――氷河がコピーで、あなたがオリジナルだったなら、あなたは幸福になれるんですか? そうじゃないでしょう? あなたの現在の境遇は、氷河には関わりなく、あなたが あなた自身の力と努力で手に入れたものです。あなたが、あなたのオリジナルとしての氷河にこだわることは、あなたご自身を傷付けることになりかねない。やめてください、もう。誰でもない、あなた自身のために。そして、僕の氷河のために」

氷河にも、氷河と同じ瞳を持つ人にも、傷付いてほしくない。
それが、瞬の心からの願いだった。
しかし、瞬の その願いが ロモノーソフ氏の気に障ってしまったらしい。
彼は、その唇の端に 皮肉の色の濃い微笑を刻んだ。
「瞬さん。あなたの育ちがどういうものなのかを、私は知らない。これは お世辞ではなく、確かな事実として――あなたの人間としての質は 最上等のものであるようだ。美しいだけでなく、腹が立つほど賢く、優しい。あなたは、あなたの氷河を敵視する者にまで 優しさを示そうとする。実に不愉快だ」
「ロモノーソフさん……」

ロモノーソフ氏は そう言うが、瞬は 自分を賢い人間だと思ったことは、これまで一度もなかった。
むしろ、愚かに過ぎる人間だと思っていた。
『あなたを傷付けたくない』
瞬に そう言われた者たちは、いつも 瞬の“優しさ”に反発した。
それを、優しさではなく 傲慢と見なし、瞬に対して 一層 攻撃的になる。
瞬が対峙する相手が強ければ強いほど、プライドが高ければ高いほど、その傾向は顕著だった。
瞬とて、それはわかっているのである。
わかっていても、瞬は、愚かしく その言葉を繰り返すのだ。
『あなたを傷付けたくない』
瞬は、そうすることしかできなかった。
それが、偽りのない瞬の本心だったから。

ロモノーソフ氏は、これまで瞬が対峙してきた敵たちと同じように、瞬の心を わかってはくれなかった。
「私は氷河を不幸にしたいのだ。そうしなければ、私が幸福になれない」
「そんなふうに考えている限り、あなたは幸福になることはできない。ご自分の幸福と幸運を認めて、素直に受け入れてください。そうすれば――あなたには、あなたを愛してくれる ご両親が健在で、人が望んでも手に入れられるとは限らない財産や地位があり、身の安全が保障されていて、多くの才能にも恵まれている。お友だちだって、たくさんいるんでしょう?」
「いますよ。皆、教養深い紳士ばかりだ。だが、あなたのように、のめりこむように友人を愛し、気遣ってはくれない。まあ、私は、私のオリジナルのように人に迷惑をかけることはしないし、友人に弱みを見せたこともありませんが。私には プライドがあるものですから」

ロモノーソフ氏は、どうあっても氷河を不幸にしたいらしい。
なぜだろう? と、瞬は思ったのである。
そんなことをしても、自分が真の意味で幸福になることはできないという事実を、彼は知っているはずなのに。
「氷河を不幸にするには、やはり、あなたを氷河から奪うのが最も効果的なようだ。氷河より私を選びませんか。どんな贅沢でもさせてあげますよ」
「僕は、そういうことに価値を感じないんです」
「私の方が、氷河より優れている」
「氷河は、人を深く愛することを知っている人間です」
「だから氷河を好きだと? 愛していると? 馬鹿げている。私が調べた限りでは、彼は あなたに迷惑をかけることででしか あなたに愛情を示せない無能な男だ。優秀な遺伝子も 育ちが悪いと有効活用できない。彼の母親は、いったいどういう育て方をしたのか――」

「氷河のマーマを侮辱しないで……!」
鋭い声でロモノーソフ氏を怒鳴りつけてから、瞬は、かすれた声で彼に懇願した。
「お願いですから、僕を本気で怒らせないで……!」
氷河のクローンは、自分が氷河のクローンである事実に傷付きたくないあまり、自分以外のすべての人間を傷付けようとしている。
そのために 氷河の母を――ロモノーソフ氏自身の実母でもある人まで 侮辱しようとしている。
瞬は、心の抑えが利かなくなり始めていた。
母を貶められれば、氷河は本当に傷付きかねない。
瞬は、その事態だけは 何としても避けなければならなかった。
それ以上 口をきくなと、瞬は言葉にはせずにロモノーソフ氏に命じていた。
瞬が本気で怒りかけていることに気付いた星矢が、慌てて 二人の間に割って入る。

「あのさ、氷河はさ、自分と他人を比べて、どっちが優れてるとか、恵まれてるとか、そんなこと気にしねーんだよ。それで優越感に浸ろうとしたり、劣等感で いじけたりもしない。それだけでも、氷河は あんたよりずっとましだ」
「それは、そんなことを気にする必要がないほど、彼が恵まれていて 幸福だということだ。私は、私のオリジナルがいるせいで、そんなことを気にしなければならないというのに……」
ロモノーソフ氏が、悔しそうに唇を噛む。
そうしてから 彼は、思いがけないことを、苦しげに 低い声で呻いた。
「私は、氷河のコピーだ。私が 私の母だと信じてきた人は、私の母ではなかった。彼女が私を愛してくれていることは知っている。だが、私が彼女の実子ではないことで、私が彼女を傷付けていなかったと、誰に言える。私は……私は、彼女の本当の息子として、彼女の前に存在したかったのに……!」

「へ……?」
それは本当に重要で深刻な問題である。
母だと信じていた人が、自分の実の母ではなかった。
一人の母親の息子にとって、これほど重要で深刻な問題はない。
それはアテナの聖闘士たちにもわかっていた。
だが、それでも星矢は――紫龍も、瞬でさえも――ロモノーソフ氏の苦悩の真実の原因に驚き、瞳を見開かないわけにはいかなかった。
心底から驚いて――そして、彼等は心底から ロモノーソフ氏が氷河と同じ遺伝子を持つ男だという事実を実感することになったのである。
さすがに、『こいつもマザコンかよ!』と、言葉にしてしまうことはしなかったが。






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