ロモノーソフ氏の苦悩の真の原因。 彼の悲しみ苦しみの核にあるもの。 それが何であるのかを知らされて、誰よりも迅速な反応を示したのは氷河だった。 「貴様の母親は生きているんだな……」 低い声で そう呟くと、氷河は、もしかすると初めて、彼のクローンを正面から まともに見詰めた。 そして、言った。 「もし、俺がいなくなることで、貴様が俺のクローンだということを忘れ、何のわだかまりもなく 貴様の母親を愛することができるようになるというのなら、俺は 今ここで死んでやろう。その代わり、瞬には――瞬たちには、もう関わらないでくれ。俺は、瞬がいるから――瞬たちがいるから、これまで生きてこれたんだ」 「氷河……」 「氷河、この馬鹿!」 真顔で『死んでやろう』と、彼のクローンに言ってのけた氷河に、彼の仲間たちが慌てふためく。 ロモノーソフ氏の目には、瞬たちの慌てる様が 奇異なものに映ったようだった。 微かに眉をひそめて、取り乱している瞬たちを見やり、それから氷河に向かって 憎々しげに言葉を吐きだす。 「今 ここで死んでくれる? そうしてもらえたら、助かるな。貴様さえ いなくなれば、俺が俺のオリジナルだ……!」 姿形だけでなく口調までが氷河と同じになってしまったロモノーソフ氏に、瞬はかすれた悲鳴をあげた。 「だ……だめ! そんなこと言わないで。そんなことを言われたら、氷河は本当に死んじゃうの……!」 「本当に死ぬ? まさか」 師の前に命を投げ出し、旧友の前に その目を差し出し――氷河が どういう男なのかを知らないロモノーソフ氏が、“賢い”瞬の取り乱しように驚き、そして 奇異なものを見るように眉根を寄せる。 「その まさかをやらかすのが氷河だから、瞬や俺たちは 毎日毎日 苦労しているんだ。それが根本的な解決にならないということがわかっていても、氷河はそれを やらかしてくれる」 紫龍の解説を聞いても、ロモノーソフ氏は にわかに信じ難いという顔で、氷河と彼の仲間たちを見詰めているばかりだった。 たとえ全く同じ遺伝子でできていても、こればかりはロモノーソフ氏にも わからないこと。 これは、正しく“育ち”の問題なのだ。 「氷河、だめ。氷河、だめだよ。氷河が死んだら、僕たちが悲しむことを忘れないで。僕が悲しむことを忘れないで」 瞬が必死に 氷河に翻意を促し、 「だが、瞬……」 氷河は 冗談とは思い難いほど真剣に つらそうな視線を、そんな瞬に向けている。 この段になって初めて、ロモノーソフ氏は、彼の目の前で展開されている氷河と瞬のやりとりが茶番ではない可能性に思い至ったらしい。 「まさか、本気なのではあるまいな……」 「氷河が本気じゃない時なんて、ないのっ!」 それでも完全には信じられないという声音で呟いたロモノーソフ氏を、瞬は 涙混じりの声で怒鳴りつけることになった。 「……」 では、彼は本当に本気なのだろうか。 彼は 本当に、自分のコピーにすぎないもののために その命を放棄してもいいと言っているのか。 もし 本当に氷河が 自らの死を受け入れるつもりでいるのだとして、彼の命が この地上から消えてしまった時、自分はどうなるのか――どうするのか――どう感じるのか――自分は幸福になれるのか――。 客観的かつ冷静に その判断ができないほど、ロモノーソフ氏は馬鹿ではなかった。 彼には ふざけた戯れ言としか思えない提案を、真面目な顔で提案してきた彼のオリジナルに、ロモノーソフ氏が 意識して冷淡に応じる。 「冗談だ。君に死なれたりしたら、私は君に対して、一生消すことのできない負い目を負うことになる。一生 その負い目を抱えて 卑屈に生きていかなければならなくなる。君に死なれても、この問題は 何も解決しない」 「……」 ロモノーソフ氏と同じ瞳で、自分と同じ瞳を持ったロモノーソフ氏を、氷河は しばし無言で見詰めていた。 それが 無理をして言った虚言でないことを見てとったのか、やがて氷河が その肩から力を抜く。 「ありがとう。瞬を悲しませずに済む」 「礼など不要。私は、君と違って 教養のある紳士だ。財産、地位、家族、友人、約束された未来――すべてが私の手の中にある。君に 君の死を施されても、有難くも何ともないんだ」 「すごいな」 ごく短い氷河の答え。 その短い答えを聞いたロモノーソフ氏は、唇を きつく噛みしめ、ついと 視線を脇に逸らした。 『ありがとう』 『すごいな』 それは、クローンであるロモノーソフ氏には 決して言うことのできない言葉だったのだろう。 懸命に自分のプライドを守らなければならないクローンは、自らのオリジナルである者に その言葉を告げた途端、敗者になってしまうから。 「私には、瞬は いないがな」 それが、氷河のクローンであるロモノーソフ氏が 口にすることのできる精一杯の素直な心の吐露だったのかもしれない。 その一言だけを残し、ロモノーソフ氏は アテナの聖闘士たちの前から姿を消した。 |