「アテナが危険な状態? 敵襲があったのか? いつ?」 氷河には、それは寝耳に水のことだった。 ここ1週間ほど アテナは聖域を出ておらず、お忍びでどこかに出掛けていったという話も、氷河は聞いていなかったから。 アテナ降臨の時から彼女に付き従ってきた 生え抜きの青銅聖闘士たちは、アテナが聖域に滞在中は、教皇殿に それぞれの部屋を与えられ、そこを聖域での活動の拠点としている。 白鳥座の聖闘士に割り当てられている部屋を、天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士が、まるで人目を忍ぶように ひっそりと訪れたのは、寒さ厳しい冬の ある日。太陽が中天に至る少し前。 これ以上 寝ていたら 朝寝坊が昼寝になってしまいかねないと考えた氷河が、のそのそと寝台を抜け出た頃だった。 寝起きで ぼんやりしていた氷河の頭は、仲間たちによって もたらされた大事件の知らせのせいで、即座に平生の明瞭さと緊張を取り戻したのである。 星矢と紫龍の表情は暗い。 アテナは、それほど危ない状況にあるのか。 なぜ そんなことが起きたのか。 氷河は、噛みつくような勢いで、事件の概要の説明を求めたのである。 紫龍が、暗い表情のまま 左右に首を振る。 「敵襲があったとは考えにくい。倒れているアテナが発見されたのは この聖域内、アテナ像の真下なんだ。聖域のアテナの結界は維持されたままで、敵が聖域内に入り込んだ気配はない」 「では、聖域内に裏切者がいるということか? 何者が――いや、それよりアテナの容体は――」 「アテナはアテナ神殿の奥の部屋だ。瞬がついている。」 「瞬が?」 紫龍のその言葉を、氷河は訝ることになったのである。 “危険な状態”で、おそらく床に伏しているのだろうアテナに、(女性ではなく)男子である瞬がついていることも不自然だが、“危険な状態”にあるアテナが まだ聖域内にいることは 一層不自然――むしろ、非合理――なことだった。 「いや、瞬なら、細かいことにも気がきくから、病人や怪我人の看病には うってつけだろうとは思うが、しかし、それほど危険な状態なら病院に入院させた方がいいのではないのか」 「病院に運び込んでも、医者にはどうにもできない」 「どういうことだ」 氷河にしてみれば、当然かつ自然な質問。 だが、氷河に問われた紫龍は、そんな氷河に不審の目を向けてきた。 「アテナ像の下で発見された時、アテナの身体は冷え切っていた。アテナは全身を凍気に犯されていたんだ。今、瞬が温めている。アテナが そういう状態にあることを公にすることは、聖域に混乱を招きかねないから――このことを知っているのは、今のところ、俺たちと黄金聖闘士たちだけだ」 「凍気?」 公にできないアテナの“そういう状態”。 それは、アテナが危険な状態にあることなのか、アテナを害した者が冷却系の技を使う者だということなのか。 いずれにしても、あるいは その両方であったとしても、アテナが“そういう状態”にあることを公にすべきではないという紫龍の考えには、氷河も反対ではなかった。 ただ、氷河は奇異に思ったのである。 アテナが危険な状態にあって対応策を練るために聖闘士を招集するというのであれば、伝令係に『アテナ神殿に来るように』と伝言を託せばいいだけのこと。 知らせをもらえれば、白鳥座の聖闘士は すぐにアテナの許に馳せ参じる。 アテナの聖闘士が二人も揃って呼びに来る必要はない。 そもそも、星矢と紫龍は 氷河を“呼びに来た”ふうではなかった。 むしろ、白鳥座の聖闘士がアテナの許に馳せ参じるのを阻むために、彼等はここに やって来た――ように、氷河には感じられたのである。 その推察は 当たっていたらしい。 紫龍は、暗く重い口調で、彼等が仲間を呼びに来たのではないことを、氷河に知らせてきた。 「ああ、凍気だ。しかも、敵の攻撃を受けて倒れた際、アテナは、裏切者の正体を知らせるべく、ダイイング・メッセージを残していた。いや、幸い アテナはまだ存命だから、“ダイイング”メッセージではなくなったんだが」 「アテナを害した裏切者の正体がわかっているのか?」 紫龍に そう言われ、氷河は 星矢と紫龍の暗く重い表情の訳が わかったような気がしたのである。 聖域内にいる、アテナを害することができるほどの凍気使い。 氷河が知る限り、その条件に当てはまるのは、彼の師である水瓶座アクエリアスのカミュしかいなかった。 つまり、そういうこと。 星矢と紫龍は、反逆者の疑いをかけられた白鳥座の聖闘士の師の仕置きを、その弟子に任せるためにやって来たのだ。 カミュの仲間である黄金聖闘士たちに、それをさせるのは忍びない。 かといって、龍座の聖闘士や天馬座の聖闘士がそれをしてしまったら、カミュの弟子である白鳥座の聖闘士を蚊帳の外に追いやることになる。 だから、彼等は、白鳥座の聖闘士の許にやってきたのに違いなかった。 白鳥座の聖闘士の他に、その務めを果たしていい者はいないと考えて。 いわゆる、武士の情けで。 もちろん、それは紫龍にも星矢にも苦しい決断だったに違いない。 だが、水瓶座アクエリアスのカミュが 誰かに倒されなければならない時、彼が その相手として望むのは白鳥座の聖闘士をおいて他にはないと、彼等は考えた――そう 考えてくれたのだろう。 実際、氷河も、『師が他の誰かに倒されるのを傍観者として眺めているくらいなら、彼の弟子である自分が この手で』と思った。 もちろん、その前に、彼がなぜ そんなことをしたのか、カミュに事情を聞き、場合によってはアテナや黄金聖闘士たちに情状酌量を願い出るつもりだったが。 その役目にも、頭の固い黄金聖闘士たちよりは、言ってみればアテナ子飼いの青銅聖闘士の方が適任である。 臨機応変の美徳を持たない黄金聖闘士たちは、『どんな事情があったにせよ、アテナに危害を加えるなど言語道断』と、問答無用で事に及びかねなかった。 「反逆者の正体がわかっているのなら――俺が、その反逆者を成敗する」 そう告げる口の中に、苦いものが込み上げてくる。 だが、氷河は そう言わないわけにはいかなかったのである。 そうするのが、誰にとっても――カミュを含めた すべての人にとって――最善の策だろうと思うから。 そんな氷河に、紫龍が、 「おまえには無理だ」 と断じてくる。 「俺には無理? なら、なぜ俺に……」 確かにそれは、色々な意味で容易なことではないだろう。 だが、白鳥座の聖闘士に その師を倒すことができないと思うのなら、なぜ彼等はここに来たのか。 もしかしたら彼等は、カミュの弟子の許に、カミュを倒す許しを得るためにやって来たのだろうか。 それとも――。 紫龍に無理と断じられることで、第二の可能性に思い至った氷河は、つい その唇を ほころばせてしまったのである。 それは決して喜んでいい事態ではなかったのだが。 「カミュではないのか? カミュ以上の強敵――もしかしたら、神か?」 喜んでいいことではないのに、どうしても声が弾む。 喜んでいいことではないと わかっていても、氷河は喜ばずにはいられなかったのだ。 自分が倒さなければならない相手がカミュでないのなら、その敵が神でも仏でも躊躇なく拳を振るうことができる。 力及ばず返り討ちに合ったとしても、カミュを自分の手で倒すことに比べたら、その苦しみは100分の1で済むだろうと、氷河は思った。 突然 張り切り出した氷河に渋面を向けてきたのは 星矢だった。 渋面というより、それは困惑顔というべきものだったかもしれない。 「おまえ、何か根本的に誤解してないか?」 眉をしかめながら、星矢は仲間にそう言った。 「誤解?」 白鳥座の聖闘士が誤解をしているということは、アテナを害した者が水瓶座の黄金聖闘士でもなければ、神でもないということだろうか。 では、いったい誰に、神であるアテナを凍りつかせるようなことができるというのか。 その答えに行き着くことができなかった氷河は、困惑顔の星矢に、彼と同じ困惑顔を向けることになったのである。 そんな氷河に、“答え”を教えてくれたのは、氷河のもう一人の仲間であるところの龍座の聖闘士だった。 彼は氷河に教えてくれた。 “答え”――驚くべき“答え”を。 「氷河。もし それが 己れの犯した罪を逃れようとしての芝居なら、やめた方がいい。アテナを害した反逆者の正体は明白。アテナが最後の力で残したデイイング・メッセージは、『氷河』だ」 「……なに?」 「正確には、『氷河目』と書かれていたんだ。この聖域に、“氷河”という名を持つ者は おまえ一人だけだ」 「……」 『この聖域に、“氷河”という名を持つ者は おまえ一人だけだ』という紫龍の見解に、異論はない。 日本ではどうなのかは わからないが、“聖域内”という範囲をユーラシア大陸にまで広げても、“氷河”という名を持つ人間は白鳥座の聖闘士 ただ一人だけだろう。 その意見には同意する。 その意見には同意するが。 あまりにも想定外の 反逆者の正体に、氷河は唖然としてしまったのである。 |