「アテナの身体には外傷はなかったんだが、アテナが倒れていた場所の周辺には 肉の破片や血痕が散らばっていた。てっきり、アテナの反撃に合った敵のものだと思っていたんだが……おまえは怪我はしていないようだな」 「当たりまえだ! おまえたちは 本気で そう思っているのか !? 俺が――俺がアテナを弑そうとしたと?」 氷河に問われた星矢と紫龍が、揃って唇を引き結ぶ。 彼等は『そう思っている』と答えることはしなかった。 『そう思っていない』とも答えてはこなかったが。 その答えを避けて、紫龍が暗い声で言う。 「……アテナの結界が破られていないということは、アテナを害した者は聖域内にいるということ、この聖域に裏切者がいるということだ。そして、その裏切者は、アテナを凍りつかせるほどの凍気を持っている。命を絶つほどではないにしろ、神に危害を加えることができるほどの力の持ち主なんだ。聖域内で該当するのは、神聖衣を まとったこともある凍気使いの おまえしかいない。カミュということも考えられないではないが――アテナのダイイング・メッセージは『氷河』、『カミュ』ではない。状況は、おまえこそがアテナを害した反逆者だと示しているんだ」 「俺じゃない!」 とんでもない冤罪。 あり得ないほどの大罪の嫌疑。 氷河は、大声で即座に その嫌疑を否定した。 氷河が発した声以上に大きな声で、星矢が氷河を怒鳴り返してくる。 「俺たちだって信じたい! だが、他に誰がいるんだよ! アテナを凍りつかせることができるほどの力の持ち主が、おまえの他に!」 「……」 星矢は本気で――冗談ではなく本心から――命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間が犯した罪に苦しんでいるようだった――我が事のように苦しんでいるようだった。 だが、それは誤解――これは冤罪なのだ。 「じょ……冗談じゃない! 俺にだって、アテナを凍りつかせることなどできないぞ! 俺は 地上の平和とアテナを守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士だ。だいいち、アテナは――アテナは神なんだぞ。アテナの力の強大さは、おまえたちだって知っているだろう。俺たちごときでは 到底太刀打ちできない!」 「ああ、そうだな。だが、相手がおまえなら、アテナも油断するだろう。どれほど強大な力を有していても、使わなければ そんな力は飾りにもならない」 「油断してたって、俺が沙織さんに敵うものか! そもそも、その反逆者が もし俺だったとして、動機は何だ、動機は! 俺にはアテナを害することで得る益などないぞ!」 たとえば――教皇は アテナの意に従って、アテナを騙る城戸沙織と 彼女に従う者たちを倒すよう黄金聖闘士たちに命令を出したのだと信じていた十二宮戦。 アテナのために血の涙を流してハーデス軍に降った振りをした、第二の十二宮戦。 本意ではなかったにしても 二度までもアテナに叛旗を翻したことのあるカミュなら、三度目もあるかもしれないが、そんなカミュとは異なり、白鳥座の聖闘士の立ち位置は 常に単純明快。 白鳥座の聖闘士は、常にアテナを守る者として、アテナの傍らにあった。 そんな白鳥座の聖闘士が、いったいどんな理由でアテナを害さなければならないというのか。 答えられるものなら答えてみろと言わんばかりの勢いで、仲間たちに噛みついていった氷河への答え。 それは、 「おまえ、日本とギリシャを頻繁に行ったり来たりするアテナに不満たらたらだったじゃん」 「うむ。聖域は世界一のブラック企業だと言っていたな」 という、実に微妙なものだった。 職場環境や待遇への不満。 地上世界の存亡という問題に比べれば 低レベルなのかもしれないが、それは、大の大人たちが徒党を組み、ストライキ、デモ、裁判等の手段を用いて改善を求めるような重大な問題でもある。 「う……」 そういったことを言った記憶は、確かに氷河の中にあった。 それも一度や二度ではなく、氷河は、月に一度は アテナへの不満を口にしていた。 それは事実である。 事実だったが。 「確かに 沙織さんへの不満は腐るほどある。しかし、それでアテナを倒してしまったら、地上の平和はどうなる !? 人類の存続はどうなるんだ!」 「沙織さんがいなきゃ、敵も現われないんじゃないかって、おまえ、そんなことも言ってたじゃん」 「冗談に決まっているだろう、冗談に! おまえ等だって、俺の言うことに賛同していたじゃないか!」 「冗談に決まってるだろ、冗談に!」 氷河と全く同じ内容の反駁を氷河に返してから、星矢が気まずい顔になる。 気まずげな表情のまま、星矢は氷河に問い返してきた。 「じゃあ、なんで沙織さんは あんなダイイング・メッセージを残したんだよ!」 星矢の疑念は、至極当然。 自分の命が脅かされている時に、アテナが冗談で そんなメッセージを残すはずがない。 だが、それは 氷河にとっても 謎以外の何物でもなかった。 「沙織さんに会わせろ! なぜ俺の名を残したのか、俺が直接 沙織さんに訊く。本当の裏切者を見付ける手掛かりが得られるかもしれない」 「アテナは意識不明だ。こんこんと眠っている」 「……」 白鳥座の聖闘士にかけられた嫌疑を晴らすことのできる ただ一人の人が、意識不明の重体。 万々が一、このままアテナの意識が戻らなければ、白鳥座の聖闘士は 聖域とアテナへの反逆者として処刑されることにもなりかねない。 この現状は、決して冗談ではないのだ。 音がするほど きつく、氷河は奥歯を噛みしめた。 そんな氷河に、紫龍が抑揚のない声で――努めて冷静であろうとしている声音で問うてくる。 「アテナは いつ目覚めるかわからない。おまえは、アテナに頼らずに 自分の汚名を自分で晴らさなければならないんだ。アテナが襲われたのは、昨夜深更だ。おまえ、夕べ どこにいた?」 「それは……」 「おまえが 教皇殿のおまえの部屋にいなかったことはわかっている。昨夜は、腹を減らした星矢が、おやつを探して、俺たちの部屋を巡っていたんだ。瞬は 自室で眠っていた。おまえの部屋は空。最後に俺の部屋に来て、星矢は俺が隠し持っていた月餅を奪っていった」 「――」 アテナが何者かに襲われていた(かもしれない)時刻、白鳥座の聖闘士は自室にいなかった。 その事実を知っているから、紫龍たちは 白鳥座の聖闘士を裏切者ではないと断じることができずにいるらしい。 「あんな夜中に、おまえ、どこに行ってたんだよ!」 図らずも 仲間のアリバイの証人になり損ねた星矢が、いらいらした声で、氷河を問い詰めてくる。 『なぜ おまえは自分の部屋にいてくれなかったのだ』と、『部屋に いてくれさえしたら、俺は おまえのアリバイを証明できたのに』と、星矢は言葉にはせず、暗に氷河を責めていた。 「それは……」 「それは?」 「言えん」 「なんで言えねーんだよ! おまえ、今の自分の立場がわかってんのか !? おまえは今、アテナ殺害未遂の嫌疑をかけられてるんだぞ! 黙秘権なんか使ったって、おまえには何の得もねーんだぞ!」 「星矢の言う通りだ。アテナが敵に襲われていた時刻、おまえがどこにいたのかを言ってもらえなければ、俺たちは おまえを アテナと聖域への反逆者として捕えなければならん。いや、捕えるだけでなく――」 「俺じゃない!」 「じゃあ、誰だというんだ! アテナの結界内、神を傷付けることができるほどの凍気、ダイイング・メッセージに『氷河』。しかも、おまえにはアリバイがない!」 紫龍が――紫龍までが――声を荒げたくなる気持ちは、痛いほどわかる。 このままでは彼は、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間を、己が手で倒さなければならなくなるのだ。 紫龍の苛立つ気持ちは、氷河にも よくわかった。 だが、そう言われても――自分の命が危険にさらされている時に なぜアテナが『氷河』というダイイング・メッセージを残したのか、その訳が氷河自身にもわかっていなかったのだ。 「アテナのダイイング・メ――いや、ただのメッセージは『氷河』ではなく『氷河目』と記されていたと言っていたな。『氷河』はさておき、その『目』というのは何なんだ?」 アテナが残した文字には きっと、白鳥座の聖闘士が犯人ではないことを示すヒントのようなものがあるに違いない。 そう信じて仲間に尋ねた氷河に、星矢は投げ遣りな答えを返してきた。 「知るかよ! 『氷河に こんな目に合わされた』とでも言いたかったんだろ!」 こんな時に黙秘権行使など馬鹿げていると、星矢は仲間の愚行のせいで怒り心頭に発しているようだった。 「ともかく、俺たちは、おまえの疑いが晴れるまで、おまえを牢に閉じ込めておかなければならない。あるいは――おまえの反逆が確実なものになって、処刑することになる時まで」 「俺じゃない!」 「俺たちだって、信じたいんだ。信じたい! せめて、夕べ、どこにいたのかを言ってくれよ! そしたら、俺たち、それを証明してくれる奴を必ず探し出すから!」 星矢の怒声は悲鳴じみていた。 否、むしろ それは泣き声に近いものだったかもしれない。 そうまで言ってくれる仲間に、 「それは……言えないんだ」 という答えをしか返すことのできない自分を、氷河は 一刹那 世界中の誰よりも憎んだ。 しかし、それは どうしても口外できないことだったのだ。 「どうしても言えないというのなら……すまん、氷河、抵抗せずに俺たちに捕えられ 牢に入ってくれ」 苦渋だけでできている声で、紫龍が仲間に そう告げてくる。 白鳥座の聖闘士を捕えにきたのが、星矢と紫龍の どちらか一人だけだったなら 逃げることもできたかもしれないが、二人に迫られたのでは それは不可能。 たとえ この場から逃げることができたとしても、それでは 自らにかけられた嫌疑を晴らすことはできない。 それができるのは、この地上に 女神アテナただ一人だけ。 そのアテナは、意識不明の重体。 氷河は、今は、従容として仲間たちに捕えられることしかできなかった。 |