まさか、こんなことになろうとは。
――と、氷河は、仲間たちの手によって閉じ込められた牢の中で、深く長い溜め息を洩らしたのである。
彼が幽閉された牢は、サガによってカノンが幽閉された海に面した牢ではなく、教皇殿の地下にある石牢だった。
アテナと聖域への反逆者を閉じ込める地下牢には暖房器具などなく、牢の石壁は 真冬のこととて 冷気を溜め込んでおり、ひどく寒い。
とはいえ、もちろん、極寒のシベリアで修行を積んできた氷雪の聖闘士に、地中海性気候の冬の寒さが苦になることはなかったが。

氷河を苛んだのは、真冬の石牢の寒さや冷たさではなく、彼が反逆者として 仲間の手によって牢に閉じ込められたという事実そのものだった。
そして、未だ 意識を取り戻していないらしいアテナの容体。
何より、自分には アテナを傷付けるようなことをした覚えが全くないということ。
誰か、本当の裏切者が無実の聖闘士を陥れるために、周到に罠を仕掛けたのではないかと、氷河はそんなことさえ考えていたのである。

いずれにしても、今の氷河にできることは、一刻も早くアテナの意識が戻るようにと 祈ることだけ。
アテナが目覚めてくれさえすれば、白鳥座の聖闘士にかけられた嫌疑は晴れる。
が、もしアテナが このまま二度と目覚めることがなかったら、万事休す。
白鳥座の聖闘士は、反逆者の汚名を着せられたまま処刑されるしかないだろう。
それが、氷河の希望と不安だった。
彼女の聖闘士たちの誰よりも生命力にあふれ、しかも悪運の強いアテナが そう簡単に儚くなることはないだろうとは思うのだが、万一ということもある。
アテナの心と魂は神のものだが、その肉体は 普通の人間の少女のそれにすぎないのだ――。
そんなことを悶々と考えていた時だったので、アテナに付き添っているはずの瞬の姿が 牢の前に現われた時、氷河は少なからず動揺することになったのである。

「氷河……」
「瞬……!」
できれば、こんな不様で情けない姿を 瞬には見せたくなかった。
地上の平和とアテナを守るために命を賭して戦うアテナの聖闘士が、アテナに対する反逆者として牢に捕えられている。
アテナの聖闘士にとって、これほど不名誉なことがあるだろうか。
氷河が瞬に 自らのそんな姿を見られることに かろうじて耐えることができたのは、自分は アテナと仲間たちを裏切っていないという事実を、彼自身が知っているからだった。
そして、牢の中にいる罪人を見詰める瞬の目が、これまでと変わらず 優しいままだったからでもある。
氷河はまず、そのことに安堵した。
もっとも、その1秒後には、氷河は、アテナの傍らに付き添っているはずの瞬が この場に現れた事実から想定できる最悪の事態のせいで、全身の血が凍りついてしまっていたが。

「なぜ、おまえがここに……。まさか、アテナが……」
白鳥座の聖闘士の瞳と声が 悲痛の気味を帯びる様を認めて、瞬は、牢の中にいる仲間が何を危惧しているのかに気付いたらしい。
瞬はすぐに、ごく微かにではあったが、その口許に笑みのようなものを刻んだ。
おそらくは 反逆者の汚名を着せられた仲間の心を安んじさせるために、かなりの無理をして作った笑み――。

「アテナは大丈夫だよ。アテナの部屋を僕の小宇宙で満たしてきたから」
「おまえの小宇宙で部屋を満たしてきた――? それで大丈夫なのか? おまえが つききりでいなくても? その程度で?」
白鳥座の聖闘士がカミュの凍気に犯された時、瀕死の仲間を救うため、瞬は その命をかけた。
しかし、今回の犠牲者はアテナである。
神を凍りつかせるほどの凍気は、カミュのフリージング・コフィンより はるかに強く絶望的なものであるに違いないと、氷河は思っていた。
だが、そうではない――そうではなかったようだった。
瞬は、不安顔の氷河に浅く頷いて、彼にアテナの容体を知らせてくれた。

「命に別条はないの。ただ、目覚めることを拒否しているみたいに、深く眠っているたけで」
「命に別状はない? そうか……よかった」
それならば、希望はある。
それならば、まだ諦める必要はない。
氷河は長い安堵の息を洩らし、緊張させていた全身から力を抜いた――自然に力が抜けていった。
そんな氷河に、瞬が、鉄格子の向こうから尋ねてくる。
「氷河じゃないよね?」
「もちろんだ」
「よかった」

氷河の答えに、瞬が嬉しそうに微笑む。
これは冤罪だと 言葉を尽くして訴えれば、瞬なら必ず仲間を信じてくれるだろう。
そう思ってはいた。
そう思ってはいたが、しかし、今 何者かの凍気によって意識不明の重体に陥っているのは、瞬の女神――聖域の全聖闘士が その命をかけて忠誠を誓っている女神アテナである。
これほど簡単に瞬が仲間を信じてくれることが、氷河は 少々 意外だった。
なにしろ、白鳥座の聖闘士を この牢に幽閉したのは、自分の命をも ためらいなく投げ出すことができるほどに信頼し合っている(と氷河が思っていた)彼の仲間たちだったのだから。

「俺を――信じてくれるのか」
「当たりまえだよ。仲間だもの」
「しかし、星矢と紫龍は……」
決して、恨み言を言うつもりはない。
星矢と紫龍は、アテナの聖闘士として 彼等が為すべきことをした。
それだけのことなのだ。
それだけのこと――それだけのこととわかっていても、氷河は その眉を曇らせないわけにはいかなかったのである。
共にアテナを守って戦う聖闘士同士という仲間意識だけではない強い絆が、自分たちの間にはあるのだと、氷河は信じていた。
今になって思えば、それは、絆や信頼と呼べるものではなく、単なる甘えだったのかもしれないが。
瞳に翳りを帯びることになった氷河に、瞬は、それは誤解だと、それこそ冤罪だと告げてきた。

「星矢たちも、仲間だから……。こうしないと、氷河がアテナに危害を加えるっていう許されぬ罪を犯した反逆者だと信じた人たちの中から 氷河の命を狙う人が出てくるでしょう? 星矢たちは、氷河の命を守るために、氷河をこの牢に保護したんだよ。この牢に閉じ込められるのは アテナや聖域への反逆みたいに 重い罪を犯した者たちだけで、アテナの許可なく罰することはできない。たとえ意識不明でも、アテナが生きている限り、氷河の命は守られる。星矢と紫龍も、つらい立場にいるの。星矢たちは今、氷河を処刑しろって いきり立ってる黄金聖闘士たちを 必死に抑えてくれてるんだ」
「あいつ等が……」

仲間を信じ切れていなかったのは、どうやら自分の方だったらしい。
瞬の言葉を聞いて、氷河は 自らの浅慮を深く悔やんだ。
白鳥座の聖闘士の仲間たちは、たとえ白鳥座の聖闘士の嫌疑が晴れなくても、白鳥座の聖闘士が反逆者の汚名の下に処刑されることになっても、仲間を信じ続けてくれるに違いない。
それなら それでいいと、氷河は思ったのである。
仲間たちが白鳥座の聖闘士の無実を信じてくれているのであれば、それだけで――と。
無論、白鳥座の聖闘士に着せられた反逆者の汚名を晴らすことができるなら、それが最善のことではあったが。






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