胸中にあった わだかまりが瞬時に消えたような気分になった氷河に、瞬は 更に 白鳥座の聖闘士に有利有益な情報をもたらしてくれた。 「氷河じゃないって、わかってる。アテナを凍らせてた凍気、すごく なまぬるい凍気なの。絶対零度どころか、せいぜいマイナス30度くらいのものだと思う。氷河は不器用だから、そんな半端な凍気は作れないでしょう? ただ、マイナス30度程度の凍気とはいえ、アテナを凍りつかせることができるほどの力を持つ聖闘士なんて、そうそういるものじゃないから……」 それは、白鳥座の聖闘士には有利有益な情報だった。 白鳥座の聖闘士には。 「俺じゃないと信じて……。では、おまえは まさか、カミュを疑っているのではあるまいな?」 氷河の中に新たに生まれた不安。 だが、瞬は、それも すぐに打ち消してくれた。 「氷河でもカミュでもないって信じてるよ。黄金聖闘士たちは全員、容疑者から外れてるの。大丈夫。黄金聖闘士たちは、あの夜、全員集まって、徹夜でババ抜き大会をしていたんだって。全員に 確実なアリバイがあるんだ。ババ抜きっていっても勝敗がかかった勝負事でしょう。揃って負けず嫌いの黄金聖闘士たちは、みんな すごく真剣に すごく緊張して勝負してて、だから途中で抜けた人もいなかったし、うたた寝するような人もいなくて――黄金聖闘士たちは、全員が 他の黄金聖闘士のアリバイの証人になってるんだ。大人数でゲームしてたから、いつまで経っても決着がつかなくて、ヒートアップして、全員 起きていたのに、黄金聖闘士たちは誰もアテナの危機に気が付かなかった。黄金聖闘士たちは そんな自分たちに腹を立てていて――少しでも早く アテナを害した裏切者を処刑しなければならないって、興奮してるの。冷静じゃないんだよ。そこに、あのダイイング・メッセージがあったから、反逆者は氷河以外に考えられないって思い込んで、氷河の処刑を急いてるんだ」 地上の平和と安寧を守るアテナの聖闘士たちの頂点に立つ(ということになっている)黄金聖闘士たちが、なぜ徹夜でババ抜き大会なのか。 なぜ、よりにもよってババ抜きなのか。 所詮は常識人の(?)一介の(?)青銅聖闘士である氷河には、その理由が全くわからなかった。 だが、それよりも何よりも。 アテナが記したダイイング・メッセージ。 それが、この冤罪を生んだ元凶である。 なぜアナテは、我が身の危機に際して そんなメッセージを残したのか。 それが、氷河には、黄金聖闘士たちによる徹夜のババ吹き大会よりも深い謎だったのである。 「本当に俺じゃないんだ」 低く呻くような声で、氷河は瞬に訴えた。 瞬が、仲間の訴えに すぐに頷く。 「わかってる。でも、氷河にかけられた疑いを晴らすには、氷河にはアテナを襲うことが不可能だったってことを証明する客観的な証拠が必要なんだ。黄金聖闘士たちのババ抜き大会みたいな、確実なアリバイが必要なんだよ。だから、その時刻に氷河がどこにいたのかを、僕に教えて。そうしたら、僕が必ず――」 アテナが何者かに襲われていた時刻に、白鳥座の聖闘士がどこにいたのか。 白鳥座の聖闘士が それを告げることを頑として拒んでいると 星矢たちから聞いて、瞬は この場にやってきたものらしかった。 白鳥座の聖闘士の現場不在証明さえ為されれば、仲間の冤罪を晴らすことができる。 そう信じて。 だが、氷河は、昨夜深更 自分がどこにいたのかを瞬に告げることは、どうしてもできなかったのである。 「言えん」 「氷河……。氷河は今、アテナへの反逆罪に問われているんだよ……!」 仲間のすげない答えに、瞬が悲鳴じみた声を響かせる。 それは、冷たい石牢の壁にぶつかり、細い木霊になって、悲痛な響きを一層 強く濃くした。 万一 アテナが目覚めることがなかったなら、瞬はアテナと共に仲間までを一度に失うことになるのだ。 瞬の悲痛悲嘆は当然のことである。 そして、こんな事態に陥っても黙秘権を行使し続ける仲間を、瞬が責め すがるような目で見詰めるのも、至極 当たりまえのことだった。 だが、であればこそ なおさら――最悪の事態があり得るから なおさら――氷河は瞬に自らのアリバイを告げるわけにはいかなかったのである。 「もし、このまま裏切者の汚名を着せられ、反逆者として処刑される可能性があるのなら なおさら、俺は その時 自分がどこにいたのかを言わない方がいいんだ」 「氷河。お願い。僕、必ず、氷河の濡れ衣を晴らすから! だから、その時 氷河がどこにいたのかを、僕に教えて……!」 「言えん。へたをすると、その人に迷惑をかける。誰もが冷静さを失っている この状況では、俺が汚名を晴らせなかった時、その人が連座させられることがないとも限らん」 「その人……? 氷河が迷惑をかけることになるかもしれない“その人”って誰?」 瞬に そう問われ、氷河は、自分が失言してしまったことに気付いた。 アテナが何者かに襲われていた時刻、白鳥座の聖闘士は“その人”と会っていた――“その人”の許にいた。 瞬は、そう考えたに違いなかった。 瞬は 仲間の命を救うために“その人”を探し出し、白鳥座の聖闘士のアリバイ証明を頼もうとするだろう。 氷河は、だが、それだけは 瞬に してほしくなかったのである。 「言えん」 「氷河! 氷河が迷惑をかけたくない その人は、氷河の命より、氷河の名誉より――僕たちより大事な人なの……!」 「……」 瞬に どんなに切なげに 悲しげに 苦しげに訴えられても、氷河は“その人”が誰であるのかを 瞬に知らせるわけにはいかなかった。 あくまでも黙秘を貫こうとする冷たい仲間に、瞬が すがるような視線を向けてくる。 「氷河……教えてくれないんだ……僕にも」 『俺たちには教えてくれなかったが、おまえになら、もしかしたら』 星矢たちに そう言われて、瞬は 囚われの仲間の許にやってきたのかもしれなかった。 仲間の命を救う希望があるのなら、その希望が どんなに小さいものでも決して諦めない――そう決意して。 だが、その希望は、よりにもよって瞬の仲間当人によって打ち砕かれてしまった――。 瞬の瞳から ぽろぽろと涙の雫がこぼれ落ちる。 瞬の期待に応えることのできない自分が、氷河は恨めしく、つらかった。 しかし、“その人”の名はどうしても――氷河は、瞬に告げるわけにはいかなかったのだ。 “その人”の名を告げる代わりに、氷河は、 「アテナが……アテナを襲った者の姿を見ていてくれれば――」 と、低く呻いた。 どれほど絶望的な状態にあっても、決して諦めないのがアテナの聖闘士。 氷河の その呻きを聞いた瞬が、涙を拭い、唇を噛みしめる。 瞬は、そして、健気にも氷河に断言した。 「僕、アテナのところに戻る。必ずアテナの意識を取り戻させる。そして、氷河の冤罪を晴らす……!」 「瞬……」 「氷河に、僕たちより大切な人がいても――その人を、氷河が僕たちより大切に思っているのだとしても、僕は氷河を信じてるよ」 瞬に そんな言葉を言わせてしまう自分という男が許せない。 言えるものなら、氷河とて、事実を瞬に告げてしまいたかったのである。 だが、言うことはできない。 たとえ瞬にでも――“その人”が誰であるのかを知らせることは、氷河には どうしてもできなかった。 |