フランス、ブルターニュ半島のシザン岬。 海面は、海に突き出た岬の はるか下にあるというのに、波のしぶきが ここまで飛んでくる。 頬に当たる波のしぶきを痛いと感じるのは、それが冷たいからなのか、あるいは それを運んでくる風が強く激しいからなのか。 瞬が立っている岬の下は 断崖に囲まれた湾になっていた。 その湾は、土地の者たちに“死者の海”と呼ばれているのだとか。 その“死者の海”こそ、波に呑み込まれて海底に沈んでしまった 伝説のイスの都があったとされる場所なのだそうだった。 ヨーロッパ大陸の西の端、地の果てと呼ばれるブルターニュ半島の突端に 瞬がやってきたのは、要するに、パリ・オートクチュール・コレクションのレディース部門開催時期とメンズ部門開催時期に数日の間があるからだった。 レディースとメンズの両方を見たい女神アテナ――というより、グラード財団総帥 城戸沙織が、一度 聖域もしくは日本に戻ってメンズ部門開催時期に合わせて出直してくるより、フランス国内で過ごす方が面倒がないという理由で、彼女の二人の聖闘士たちに フランス国内旅行を提案――もとい、決定・命令してきたから。 ボディガードとして彼女に随行してきた氷河と瞬に、 拒否権は与えられていなかった。 ホテルという場所が嫌いな氷河は、面倒でも聖域に帰りたそうにしていたのだが、フランス滞在中のホテルの部屋を すべて瞬と過ごせるスィートにするという条件を沙織に提示されるや、あっさり彼女に折れてしまった。 沙織がGOサインを出し、氷河が『YES』と答えてしまったのだから、瞬に口を挟む余地はない。 行先がモン・サン・ミシェルやシュノンソー城等のメジャーな観光地でない点に興味を覚えたこともあって、瞬も 結局は 沙織のフランス国内旅行に同道することを承知したのだった。 もとより拒否権はない。 アテナが『行く』と言えば、彼女の聖闘士たちは 彼女に付き従うしかなかった。 たとえ彼女の行きたい場所が、深海であろうと、冥界であろうと、過去の聖域であろうと。 しかし、それにしても、これほど何もない場所に連れてこられるとは。 そこにあるのは、灰色の空と灰色の海。冷たい風と、女性の悲鳴のような海鳴りだけ。 アテナとアテナの聖闘士の立つ場所は、岩肌の露出した切り立った崖の上の岬。 そんな場所でも、人いきれでいっぱいのファッションショーの会場よりは はるかにましだと思うから、瞬は その荒涼として寒々しい風景に 文句を言う気にはならなかったが。 昔、ここには、グラドロンという王が支配するイスという名の都があった。 海水の侵入に備えて高い城壁を巡らせた その都は、教会の尖塔や城の櫓が林立し、その美しさは、パリが その名を決める際、『イスのような町(Par-Is)』とした程だったと、伝説は語っている。 グラドロン王には、ダユーという美しい娘が一人いた。 ある日、彼女の許に美しい青年に化けた悪魔が現われ、ダユーは その青年に夢中になってしまう。 彼は、愛の証として、イスの都の城壁の水門の鍵を渡すよう、ダユーに求めた。 父が眠っている隙に水門の鍵を盗み出したダユーは、その鍵を悪魔に渡す。 その鍵で悪魔が水門を開けると、美しかったイスの都は 瞬く間に押し寄せる波に呑み込まれてしまった。 異変に気付いたグラドロン王は娘を馬に乗せて 都から逃げ出したのだが、波はすぐ そこまで迫ってくる。 その時、天から声がして、 「もし、そなたが助かりたいのであれば、そなたと共に馬に乗っている悪魔を突き落とせ」 と、王に命じてきた。 王がその命令に従うと、波はダユーを呑み込んで引いていき、王は無事に逃げおおせることができた。 イスの都を失ったグラドロン王は その後を隠修士として余生を過ごしたのだが、王の娘のダユーは半身半魚の魔女セイレンとなって、今もなお、その美しい姿と歌声で船人たちを海中に引きずり込んでいるという――。 それが、イスの都の伝説のあらまし。 花の都と呼ばれるパリが憧れるほど美しい町が この荒涼とした風景の中に存在したとは、容易には信じ難いことである。 だが、だからこそ――容易に信じることができないからこそ――イスの都は本当に この地に存在したのかもしれないと、瞬は思ったのである。 本当に存在したのでなければ、この灰色の海の底に 美しい都があったとは、誰にも夢想できないことだと思えるから。 それほどに――そこは、寂しく、寒く、厳しい場所だったのだ。 「民俗学者や歴史学者の間では、イスの都の伝説は、キリスト教と古い土着の宗教の戦いを表わしている――というのが定説になっているわね。神に救われるグラドロン王はキリスト教を受け入れた人々の代表、海中に沈んでしまったイスの都の民は、古い宗教に固執したために罰せられた人々。セイレンになってしまったダユーが象徴しているのは、キリスト教の伝来によって没落してしまった古代宗教の大地母神。そんなふうに」 この場合の“古い土着の宗教”はケルトの神々への信仰を指しているのだろうが、キリスト教に権威を奪われた古代からの宗教というなら、ギリシャの神々への信仰も その中に含まれる。 イスの都の伝説が、イエスやムハンマドという人間によって作られた新興の宗教と 自然発生的な古代宗教との対立を表わしているというのなら、それはアテナの聖闘士たちにも無関心でいることのできない伝説だった。 「ロマンチックな恋物語だと、うっとりしてばかりもいられない伝説ですね」 だから アテナは ここに来たのだろうか。 古代の神が支配していた都のあった場所――言うなれば、ケルトの神の“聖域”に? そう、瞬は思ったのである。 跡形もなく滅び去った古代の神の都の沈む海に、アテナは さほど感傷的な目を向けてはいなかったが。 「そうね。でも、それは学者たちの勝手な こじつけで、伝説の真実の姿は違うかもしれないわ。それでなくても、そういったことは、事実を捻じ曲げられ、勝利者に都合のいいように解釈されて伝わるもの。本当の姿はわからない。イスの伝説のグラドロン王脱出の場面は、いかにも あとから付け加えられた蛇足めいているでしょう?」 「確かに……姫君と悪魔の恋物語に、雰囲気がまるで違う教訓話を割り込ませたようですね。伝説の真実の姿は違うものだと、沙織さんは お考えなんですか」 「それは何とも……。ただ、ケルトの祭司であるドルイドは、彼等の宗教の教義を文字で残すことはしなかったの。そういったことは、すべて口伝で行われた。今に残るケルトの伝説は どれも、この地にキリスト教が伝わってから、キリスト教の修道士が書き残したもの。彼等は当然、自分たちに都合のいいように手直しをしたでしょうし」 「対立者によって記された伝説ですか。じゃあ、信憑性に欠けますね」 確かに、それでは伝説の真の姿は伝わりにくいだろう。 だが、ならば、イスの都の真実の姿はどんなものだったのか。 アテナは それを知っているのだろうか。 知っているのなら、聞きたい。 そう考えて、灰色の海を見詰めているアテナの横顔に視線を投げた瞬を、アテナが振り返り、見詰め返してくる。 「巨視的に見れば、神や宗教に 古いも新しいもないのよ。そんなものがあったらおかしいわ。人は昔も今も変わっていないのだから。神の名が変わり、教義の内容が少し変わっても、人は 結局 自分の信じたい神を信じる――自分に都合のいい神を信じるの。洋服を その時代に合ったものに着替えるように。でないと、デザイナーが商売あがったでしょう。シーズンごとに新作を発表する服飾デザイナーたちの勤勉には、ほんと、感動するわね」 「沙織さん……」 呆れたような口調で 沙織に そう言われ、瞬はリアクションに困ってしまったのである。 そのデザイナーの勤勉さの成果を見るために、アテナはフランスにまでやってきたのではなかったのか。 それとも、それは口実で、彼女の本当の目的は他にあったのだろうかと。 瞬の疑念に気付いていないはずのないアテナは、しかし、その答えを瞬に与えてはくれなかった。 逆に、瞬に 新たな問いを投げかけてくる。 「あなたならどうする? あなたがダユーだったら、古い神と新しい神、古い宗教と新しい宗教の どちらを選ぶ? いいえ、それはもしかしたら、父と恋人の どちらを選ぶのかという問題なのかもしれない。恋人に鍵を渡すか 渡さないかという選択だったのかもしれない。あるいは、神か恋か。イスの都は滅びるべき都だったのか 否か――」 「……」 なぜアテナは そんなことを問うてくめのか。 瞬は――瞬もまた、アテナに問い返そうとしたのである。 そこに、まるで二人の話を聞いていないようだった氷河が、ふいに口を挟んでくる。 「瞬は、神や恋より、イスの都の住人の命を最優先しそうだ」 「それは――」 氷河の推察は正しい。 もし ダユーの立場に置かれることになったら、自分は間違いなく それを選ぶだろうと、瞬は思った。 瞬がアテナの聖闘士として彼女に従っているのは、アテナが地上世界という都に住む人々の命を守る女神だからである。 もちろん、自分はそうするだろう。 自分の個人的な信仰より、自分の個人的な恋より、多くの人々の命を守ることを最優先する。 自分が そうするだろうことに確信があったので、瞬は氷河に頷こうとした。 そして、その瞬間、奇妙な目眩いに襲われた。 |