瞬が立っている場所は、冷たい波しぶきの舞う 冬の寒い岬の突端ではなかった。
そこは、暖かい春の園。
否、もしかしたら 今は既に初夏といえる季節なのかもしれない。
瞬の視界の内には、緑したたる木々があり、それらの木々は 不自然なほど豊かに多くの果実を実らせていた。
これほど多くの果実を実らせながら、これほど多くの葉を蓄えている果樹を、瞬は これまで見たことがなかった。
それが可能だということは、この庭の果樹が、あるいは庭の土壌が、過多といっていいほど栄養分に富んでいるということ。
それだけでなく、水も陽光も ふんだんになければならない。

果実が たわわに実っている、不自然に豊かな木々。
その木々の下には たくさんの花が咲き乱れ、どこからか小鳥の鳴き声も聞こえてくる。
この不自然な豊かさは、どう考えても“自然”が育んだものではない。
では“人間”の手によるものかといえば、それも違うような気がする。
この庭を作った者が人間であるなら、その人間は 果実の実りを優先させて、余計な葉を落とすだろう。
美しい以外の美徳を持たず、養分を奪うだけの花は咲かせておかない。
にもかかわらず、この庭にある果樹は多くの葉をつけ、根方には色とりどりの花が咲き乱れている。
そんな矛盾したものを作る力を持つ者がいたとしたら、それは自然でも人間でもなく、神くらいのものだろう。
実際、矛盾して豊かな その庭の果樹を見た時、瞬が思い浮かべた言葉は、“エデンの園”“エリシオン”“ヘスペリデスの園”“桃源郷”等、いわゆる理想郷の名前だった。

振り返ると、その豊かな庭を抱えた白亜の城がある。
城は威圧的な高さは備えていないが、壮麗で広い。
王の衣食住に関わる召使いは多くいるが、兵はいない。
ここは戦のない国だから。
瞬が今いる場所は、王が外気と緑と陽光を楽しむためにある 庭に張り出したテラスで、そこには王のための卓と椅子と、そして王がいた。


「どうかしたのか」
「あ、いえ、少し目眩いがして……申し訳ありません」
「大丈夫か」
「はい。陛下」
王の身の回りの世話をする者が、王に気を遣わせてどうするのだ――。
瞬は、まだ少し目眩いの残る自分を叱咤して、慌てて王に頷いた。
頷いてから、“陛下”とは誰のことだと、自身に問う。
瞬の中に その答えはなく、だから瞬は“陛下”の姿を確かめることで、その答えを得ようとしたのである。
瞬が、“陛下”の声のした方に視線を巡らせると、そこには氷河がいた。
目眩いを起こした侍従を気遣うというより、何かに驚いているような眼差しを、氷河は瞬の上に注いでいる。
そして、氷河は 奇妙な服を着ていた。

いったい今はいつなのかと疑いたくなるような、時代錯誤な衣装。
瞬は最初 それを古代ギリシャの市民の衣装かと思ったのだが、やがて それはむしろ古代のローマ貴族の服装の方に似ていると思い直した。
長く白いキトンの上に、トーガに似た濃紺の肩布。
膝下まで垂れている肩布は、重たげな黄金の肩留めで飾られている。
瞬は、しかし、氷河の服装を時代錯誤なものと評するべきではなかっただろう。
そんなことを思った瞬自身も、上着と肩布をつけていないだけで、基本のスタイルは氷河のそれと同じものだったのだから。
膝上丈の白いキトンと、素足に編み上げのサンダル。
瞬が肩布をつけていないのは、身分が使用人だからではなく、王の小間使いという職務を果たすには身軽な方がいいからだった。

このイスの都には、“王”の他に特別な身分はなく、ゆえに瞬は 貴族でも市民でも奴隷でもなかった。
イスの都の住人の一人。
それが今の瞬の身分。
このイスの都では、瞬の出で立ちは ごく普通のものだった。
豪華でもなく、飾り気もない。
だが、イスの都の住人だというだけで、他国の者たちは瞬の幸運を羨むのだ。
この都は、神に愛され、神に守られている、幸福な国だから。

「あ……」
瞬の記憶は、徐々に明瞭になってきた――瞬は思い出し始めていた。
今 自分の目の前にいるのは、1年前に、神に選ばれて、このイスの都の王となった青年。
イスの王は世襲ではない。
世襲が禁じられているわけではないのだが、イスの王は子を作らないのが常だった。

イスの王も、瞬を見詰めていた。
その瞳、その眼差しに、幸福なイスの都の王には あり得ないはずの憂いの色がたたえられていることに気付き、自分は王に対して何か粗相をしてしまったのかと、瞬は慌てることになったのである。
「陛下。僕は何か失礼なことをしてしまいましたか」
「いや、何でもない。その……陽光の中で、おまえが あまりに美しく見えたので驚いただけだ」
「は……?」
このイスの都で、ただ一人 特別な身分を有する人。
このイスの都を守り 総べている。ただ一人の特別な人。
その王に、突然 思いがけないことを言われ、瞬は 一瞬 ぽかんとしてしまったのである。
何のために 王がそんなことを言い出したのかが、瞬には まるでわからなかった。

「僕はもう1年も陛下に お仕えしているのに――どうして急にそんな戯れ言を おっしゃる気になったんです」
そう問うてから、
「陛下の方がずっと お美しいのに」
という言葉を続ける。
それは、王への世辞でも追従(ついしょう)でもなく、本心からの言葉だった。
瞬はイスの都の先代の王を知らなかったが、きっと先代の王も若く美しい青年だったのだろうと思う。
イスの都を作り庇護している神は、おそらく 彼の作った美しい都を 醜い王の手に委ねたくないのだ。
だから、都の内で最も美しい人間を王に選んでいるに違いない。
この城にやってきて、自分の仕える王の姿を初めて見た時から、瞬はそうだと確信していた。

1年前――その時のことを思い出そうとした途端、瞬はまた目眩いに襲われた。
記憶が錯綜している。
なぜ自分は この人を“陛下”と呼んでいるのだろう? と、瞬は疑った。
今 自分の目の前に、古い時代の衣装をまとって立っているのは氷河である。
伝説の都の王ではなく、女神アテナに仕える白鳥座の聖闘士。
瞬が見知っている氷河とは違う恰好をしてはいるが、彼が氷河だということは、その目を見ればわかる。

無機質で冷たく青い宝石。
だが、その宝石は、“瞬”に出会うと、にわかに熱を帯びる。
“氷河”は“瞬”を愛しているから。
いつも“瞬”を求めているから。
そして、いつも、“瞬”に求められることを求めているから。
それは、どんな時も変わらなかった。
何か不愉快なことがあって機嫌が悪い時にも、不愉快なことがなくて機嫌のいい時にも。
苦しい時も、悲しい時も、氷河は常に 愛することと 愛する人を求め、その人に求められることを求めているのだ。

その氷河が――瞬の見知っている氷河と同じ目を持っている人が、周囲に誰もいないのに“瞬”に触れることもせず、
「俺は、自分が思ったことを、思ったまま言葉にすることもできないのか!」
と、苛立った声を吐き出す。
言い終えるなり 踵をかえし、彼は 庭から城内に向かって 荒々しい足取りで歩き出した。
「陛下 !? 」
「今日は一人でいたい。ついてくるな!」
姿は氷河で、その瞳も氷河、身にまとっている衣装だけが違うイスの都の王が、瞬を拒絶する。
否、そもそも ここにいる自分は“瞬”なのだろうか。
そして、“瞬”に素っ気なく背を向けて、この場を立ち去っていったイスの都の王は“氷河”なのか。

自分の頭の中に記憶と意識が二人分あり、それらが区別されることなく溶け合い、入り乱れている――。
もしかしたら、イスの都の王の中でも同じことが起きているのではないか。
それとも、彼は あくまでもイスの都の王で、彼の侍従である自分が、王の気に障ることをしてしまった自分に気付けずにいるだけなのか――。
瞬は、城の中にある自分用の私室に戻り、不自然に豊かな果樹の林を抱えた庭を見おろすことのできる窓の傍らで、懸命に自分の中の記憶の整理を開始した。

一刻も早く いつもの自分に戻らないと、王は機嫌を損ねて、このまま“瞬”を彼の側から遠ざけてしまうかもしれない。
“氷河”なら決してそんなことはしないが、彼は氷河ではないかもしれないのだ。
彼が 氷河ではないイスの都の王なら、彼には それができてしまうかもしれない。

瞬は、自分が“氷河に求められる自分”であることを求めていた。
愛することと 愛する人を求めているのが、氷河だけではないことを知っていた。
何があっても、どんなことがあっても、“瞬”は“氷河”から離れることはできない。
離れてしまったら、“氷河”は生きていられない。
氷河のために、氷河の心が壊れてしまうような事態を避けるために、瞬は1分1秒でも早く、元の自分に戻らなければならなかった。

そうして、“瞬”の中の自分が思い出したこと――“瞬”の中の自分から 取り出した記憶。
それは 十数年間を生きてきた人間の それとしては極めて――“瞬”の記憶に比べれば驚くほど――量が少なく、密度が低く、そして感情の伴わない表面的なものだった。






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