だが、問題は、 「それが、僕の肖像画を作ることと、どういう関係があるんです」 ということである。 沙織は、『ここからが本題』というように、彼女の重々しい執務机の上に 身を乗り出した。 「そのキーノーの再来といわれる 天才肖像画家が現われたのよ!」 「天才肖像画家?」 「ええ。素晴らしい肖像画家よ。こちらは まだ存命だから、作品もちゃんと残っているわ。私も、2年ほど前、仕事で英国に行った際、直接 その作品を見る機会があったのだけど、本当に素晴らしい肖像画だったわ。写真はやっぱり駄目ね。写真は、対象物の ある一瞬の姿を写し取ることしかできない。私が見せてもらったのは 英国の ある伯爵の肖像だったのだけど、あの絵には モデルが生きてきた70年に及ぶ人生が見事な筆致で描かれていたわ。モデルの厳しさと優しさ、傲慢と卑屈、賢明と愚かさ、これまで どんな幸運に恵まれ、どんな苦労をしてきたのかまでが わかるような……。モデルになった伯爵は ちょうど現役を引退したところで、これから自叙伝を書くつもりだと言っていたけど、その話を聞いた時、私は、あれだけの肖像画を描いてもらえたのなら、わざわざ別口で自叙伝なんか書く必要はないと思ったわね」 大絶賛である。 沙織が 何事かを ここまで無条件に褒める様を、瞬は これまでに一度も見たことがなかった。 彼女はいつも、それがどんなものでも――人間でも、物品でも、思想でも、戦略でも――必ず 長所と短所を挙げて、対象を評価する人間だった。 沙織は、レオナルドやミケランジェロの作品はおろか、自らを祀るパルテノン神殿をさえ、『空調と採光に工夫が足りない』と評し、パルテノン神殿を飾るフェイデアスの彫刻をさえ、『作品を見る者の視点の高低への考慮に欠けている』と評してのける女性だった。 その沙織が、手放しの大絶賛。 噂の天才肖像画家の作品は、相当 優れたものであるようだった。 「伯爵は、現役引退と同時に肖像画の制作を依頼して賢明だったと言えるわね。彼は彼の肖像画の完成後、自叙伝を3ページ分書いたところで亡くなってしまったのから」 という沙織の言葉さえなければ、瞬は明るい笑顔を作ってしまっていたかもしれない。 瞬は、何事かを褒めている人を見るのが とても好きだったから。 が、沙織でさえ大絶賛する天才肖像画家が ハンス・キーノーの再来と言われているのは、その才能や画業の素晴らしさゆえではなく、キーノーのエピソードをなぞっているからであるらしい。 天才肖像画家の腕が いよいよ円熟期に入った ここ2年で、彼に肖像画を描いてもらった人物が、その英国の伯爵を含んで3人、立て続けに亡くなってしまったのだと、沙織は 残念そうに語った。 それも、(天才画家に支払う画料を考えれば当然のことだろうが)社会的に高い地位に就いている貴紳ばかり。 その事実を告げて、沙織は 顔を曇らせた。 「キーノーの再来という噂に怯えて、天才画家は絵を描けなくなってしまったのだけど、あなたなら、呪われた画家の肖像画のモデルになっても絵に魂を奪われることはないでしょう? だから、こうして あなたに頼んでいるの」 「あ……」 もちろん、絵などに魂を奪われるつもりはない。 それ以前に、絵に魂を吸い取られるなどということが、実際に起こり得ることだとは思わない。 だが、なぜ自分が その大役を任されることになったのかが、わからない。 絵に魂を奪われたりしそうにない人材が、この波戸邸には ごろごろしているではないか――と、瞬は思ったのである。 瞬の疑念を察したらしい沙織が、瞬に質問される前に、その答えを瞬に与えてくれた。 「私は多忙で、とても絵のモデルをしている時間など取れないわ。星矢は大人しく絵のモデルなんかしていられる性分じゃない。紫龍は、水墨画や書ならともかく西洋絵画に理解を示してくれるとは思えない。一輝は掴まえることが困難だし、氷河は――まあ、問題外ね。画家があなただというのなら、ヌードモデルだって 喜んで務めるでしょうけど、氷河は気の毒な画家への同情心なんて抱きそうにもないし」 「……」 それは、つまり、彼女の聖闘士たちの中で、アンドロメダ座の聖闘士が最も御しやすい人物である――ということなのだろうか。 少々 傷心した瞬に、沙織は畳みかけてきた。 「これは人助けなのよ。芸術のためでもある。あの天才肖像画家の素晴らしい才能を、偶然 重なった出来事のために封印するなんて、芸術界――いいえ、人類の損失よ」 「人類の損失――ですか」 「ええ、人類の大損失。でもね。もし あの天才が、大した才能の持ち主でなくても、それこそ 趣味の日曜画家レベルの人間にすぎなくても、そんなの悲しいじゃないの。ちょっと不幸な偶然が重なったことで、絵を描く楽しみや喜びを自ら放棄するなんて。まして、あの天才にとって、絵を描くことは余暇の趣味ではなく、生活の糧を得る手段であり、同時に ただ一つの生き甲斐でもあるのよ。かわいそうでしょう? 気の毒だと思うでしょう? 少しくらい手間と時間をとられても、助けてあげたいと思うでしょう? あなたは、理不尽な不幸に見舞われた人々を、我が身を犠牲にして救うアンドロメダ座の聖闘士なんですもの。画家が絵を描くことを禁じられるなんて、それは 画家にとっては『死ね』と言われているようなものよ。人類が邪神によって滅亡の危機に さらされている時に、アテナの聖闘士に戦うなと言っているようなもの。それが どんなにつらいことか、あなたになら わかるでしょう?」 「それは もちろん……とても つらいことなのだろうと思います」 「でしょ でしょ」 アンドロメダ座の聖闘士の瞳に 濃い同情の色が浮かんだのを見てとって、沙織が『あと ひと押し』とばかりに迫ってくる。 「あなたは 肖像画のモデルになって、絵の完成後 しばらく死なないでいてくれればいいの。それだけのことで、あなたは天才画家を――いいえ、一人の気の毒な人間を、救うことができる。苦しみ悲しむ人の心を救えるのは、人の愛や優しさだけ、あなたの優しく清らかな心だけなのよ。これほど 私の聖闘士に ふさわしい仕事はないわ!」 「はあ……」 沙織の態度と言葉は大仰にすぎ、どうも深刻さに欠けているような気がするが、彼女の発言は筋が通っていないわけではない。 瞬とて、つらい試練を課せられている一人の人を救う手助けができるのなら、そのために絵のモデルを務めるくらいのことはしたかった。 だが、瞬には一つの懸念があったのである。 |