「絵のモデルを務めるだけでいいのなら、僕は全く構わないんですが、氷河が何て言うか――」
それが、瞬の懸念だった。
沙織も その辺りのことは見越していたらしく、彼女は 自身の先見の明を誇るように、
「だから、氷河をここに呼ばなかったのよ」
と言ってきた。
もっとも、彼女の“先見の明”は、なぜか突然その場に現れた一人の男の、
「女流画家なら許す。画家が男なら、70歳以上の場合のみ、特別に許可を与えてやってもいい」
という偉そうな発言によって、零下200度程度に凍りついてしまったのだが。

「もう嗅ぎつけてきたの……」
なぜ、いつのまに、どうやって、どこから現れたのか わからない白鳥座の聖闘士に、沙織が一瞬 忌々しげな目を向ける。
瞬は、氷河の登場自体には あまり驚かなかったが、彼の提示した条件には 頭痛と疲労感が ないまぜになったような気分を強いられることになった。
氷河は、天才肖像画家の呪いなど 毫も気にしていない。
絵に魂が吸い取られるなどということは、彼は はなから信じていないようだった。
かといって、画家の不運に同情しているわけでもなく、画家の才能を惜しんでいるわけでもなく――彼にとっての問題は、沙織や瞬とは全く違う次元に存在しているのだ。

「こういうことにだけは鼻が利くんだから……」
口の中で ぶつぶつ文句を言いながら、沙織が態勢の立て直しを図る。
“先見の明”を凍りつかせられても、彼女には“臨機応変”という美徳があったのだ。
「氷河。残念ながら、画家は女性ではないわ。70歳以上の男性でもない。でも、あなたが危惧するようなことは起こらないわよ。天才画家は、瞬を少女と見誤るようなことはしないでしょうし、どうしても心配だというのなら、あなたが見張りに立てばいいわ。それでね、できあがった肖像画は私が買い取って、あなたにプレゼントするわ。それでどう? 一応 言っておくけど、これは 写真や動画データから それらしいものを作る、製作費4、5万程度の お手軽肖像画とは 訳が違うのよ。材料費や出張交通費等の実費の他に、画料報酬は 数百万、作品には数千万を支払うことになるわ。彼の制作した作品なら、10年20年後には億の値がつくでしょう。それを、あなたに無償で譲ると言っているの」

芸術作品の相場は、あって ないようなもの。
号価格5000円の画家もいれば、号価格1000万という、ピカソより高い画料の日本画家もいる。
好況時に100万で購入した絵が、不況時には1万円でも買い取ってもらえないというようなことも普通にある、いわば水物。
その制作に、沙織が数千万の金を出すというのなら、沙織は その画家の才能を よほど高く買っているのだ。
それほどの画家、それほどの才能。
いったい それはどれほどのものなのだろうと、瞬は、画家の作品を見る前から感嘆することになったのである。
氷河は、そんなことには まるで価値を感じていないようだったが。

「実物がいるのに、紛い物をもらって、何が嬉しいんだ」
「そう言わずに。瞬の肖像画のある部屋でラブシーンというのも乙なものよ。肖像画の瞬に、二人が ナカヨクしているところを見せつけてやるの」
「俺を変態にする気か!」
氷河に、露出症、窃視症、疼痛性愛等の異常性欲が全くないことは、瞬も知っていた。
国際医学会やWHOが、恋愛における同性指向を正常とする見解を宣言している現代においては、氷河の性的嗜好は完全にノーマルで、彼は 沙織の提案を侮辱ととる権利を確かに有している――のかもしれない。
しかし、瞬は、できれば氷河には、沙織の言う『ナカヨク』を『信頼し合い、心を許し合っている』程度に解釈してほしかったのである。
さすがに その点を指摘して 氷河を非難し、問題を蒸し返すようなことは、瞬も しなかったが。
そう しなくてよかったと、思ったのである。
“先見の明”“臨機応変”以上の沙織の美徳――女神アテナの最大奥義、“独断専行、猪突猛進、及び それらの行動に伴う事後承諾”。
その最大奥義を、沙織が既に放っていたことを知って。

「でもねえ、私、このために わざわざオランダから彼に来日してもらっているのよ。ウィレム」
そう言って、沙織が、彼女の執務室とは続き部屋になっている控え室の方を振り返る。
『ウィレム』と呼ばれて、どこか おどおどした様子で その場に登場したのは、栗色の髪、薄茶色の瞳、健全かつ健康的な姿を持った、どう見ても20歳そこそこの、少々 線の細い青年だった。
「こちらは、ウィレム・カプタイン。噂の天才肖像画家よ。子供の頃からの知り合いに 熱心な浮世絵コレクターの老人がいたとかで、彼に教え込まれて、日本語OK。よろしくね」

『よろしくね』と言われて、『はい、よろしく』と即座に応じることができるものだろうか、この状況で。
アテナの奇天烈・破天荒な言動には慣れっこの瞬にも、それは無理だった。
天才肖像画家の突然の登場に ぽかんとしている瞬の横で、氷河が素早い反応を示す。
「若い男じゃないか!」
非難の怒声をあげた氷河に、
「何か不都合でも?」
沙織が にこやかに問い返す。
その質問への氷河の答えを待たずに、沙織は さっさと話を進めていった。

「ウィレム。言っておいたでしょ。こちらが瞬。あなたに肖像画を描いてもらいたい相手。私としては、あらゆる意味で最高のモデルを用意できたと思っているのだけど、あなたの お眼鏡には適ったかしら」
天才肖像画家は、瞬がこの部屋にやってきた時からずっと、隣室で瞬の様子を見ていた――観察していたものらしい。
彼は、瞬の姿、面立ちには何の言及もしなかった。
氷河より少々背は低いが、おそらく氷河より2、3歳は年上。
どこか腰がひけている様子で瞬の側に歩み寄ってきた気弱げな青年は、瞬の正面に立って 顔をあげた途端、その印象を一変させた。

食い入るように――むしろ睨みつけるように、天才肖像画家が瞬の顔を凝視してくる。
その視線の強さは、アンドロメダ座の聖闘士をも たじろがせるほど厳しく険しいもので、実際 瞬は彼の無言の凝視に2分以上 耐えられなかったのである。
あろうことか、天才肖像画家から先に視線を逸らしたのは 瞬の方だった。
瞬に 数秒遅れて、天才肖像画家が長い吐息と共に、全身から力を抜く。
それでも視線を瞬に注いだまま、彼は沙織に、
「この瞳、描き切れる気がしません」
と答えた。
「諦める?」
間髪をいれずに問うた沙織に、天才肖像画家もまた即座に、
「でも、この人なら、僕の肖像画の呪いにも負けないような気がする」
と応じる。
画家の返答を聞いて、沙織は満足したように頷いた。

「もちろんよ。瞬は呪いなんかに負けるような子じゃないわ。瞬は、どんな試練にも どんな運命にも、いいえ、神にだって打ち克つ力を持っている人間よ」
「しかも美しい。この若さで、なぜ これほどの美しさを持っているんだ……」
容姿の美しさが加齢とともに失われていくという考えは、ほぼ世界共通のものだろう。
しかし、画家は、『若いのに美しい』と瞬を評した。
では画家の言う“美しさ”は外見のものではないのだろう。
そう、瞬は思うことになった。
そして、自分のどこに どんな美しさが備わっているのかは わからないが、だからこそ瞬は、彼の描く肖像画を見てみたいと思ったのである。
その時にはもう、瞬は彼に肖像画を描いてもらうことを決意していた。
瞬の決意を勘良く察した氷河が、大声で わめき始める。

「俺を無視して勝手に話を進めるな! 瞬を 若い男と二人きりになんかできるかーっ!」
「だから、あなたが見張りについていいと言ったでしょう。画家とモデルが 絵の制作に合意したの。余人に口出しする権利はないわ。往生際が悪いわね」
「往生際が悪くて 悪かったな! そうでないと、アテナの聖闘士なんて――いや、グラード財団総帥のボディガードなんて厄介な仕事は務まらないんだ!」
氷河にも一応、一般人に 彼の本職を知らせることは賢明ではないと判断するだけの分別はあったらしい。
急いで“グラード財団総帥のボディガード”と言い直しても、彼は既に“アテナの聖闘士”という彼の本業を声に出して言ってしまったあとだったのだが、天才肖像画家は どうやら そういうことには あまり興味がないらしい。
怒声を響かせた氷河を見やり、彼は 再び感嘆の声をあげた。

「こちらの方も美しい!」
天才肖像画家の称賛に、氷河は全く感動したふうではなかったが。
「あ? ああ、見る目はあるようだな。瞬以外の奴に褒められても、嬉しくも何ともないが」
「すごい。沙織さんといい、瞬さんといい、こちらの方といい、この家には美しい人しかいないのか……!」
氷河の感動の薄さに比して、画家の感動は大きく素直である。
沙織は、機嫌よさそうに微笑んで 彼に告げた。
「我が家には、家人が あと二人いてよ」
「沙織さん。まさか あの二人も美しいなんて、馬鹿げたことを言うつもりじゃないだろうな!」
即行で氷河がクレームをつけ、
「紫龍の佇まいは 凛としていて端正だし、星矢は いつも生気に輝いていて、チャーミングだよ」
瞬が即座に氷河のクレームに反論する。
氷河は、瞬の迅速なクレーム処理に正面から異議を唱えることはしなかったが、
「俺にとって、美しい人間は おまえだけだ」
と、彼にしては控えめな不服申し立てはした。

瞬は、画家に力を貸すことを既に決意している。
アテナの聖闘士として、一人の人間として、それを行なうことは正しいことで、よいことだと、瞬は判断したのだ。
白鳥座の聖闘士が 脇から うるさく騒ぎ立てても、瞬は やわらかく微笑みながら、自分が決意したことを やり遂げてしまうだろう。
――と考えて、氷河は抵抗を諦めてくれたらしい。
瞬が小さな声で、
「ありがとう」
と、氷河にだけ聞こえるように囁くと、氷河は悔しそうな顔をして、ぷいと横を向いてしまった。






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