肖像画制作の契約は、大陸法にのっとって その日のうちに結ばれたということだった。 画家は早くに両親を亡くし、“静謐の画家”“光の巨匠”と異名を持つヨハネス・フェルメールを生んだオランダ・デルフトの町の養護施設で育ったらしい。 肖像画制作の契約の実務は、画家の承認を得て、オランダにいる彼の代理人と沙織との間で交わされたそうだった。 画家は、自分の画料報酬のほとんどを オランダ国内の福祉事業に寄付していて、そういった方面での欲心は あまり持ち合わせていないらしい。 画家の そういう境遇や行動に共感と同情と厚意を抱いた瞬は、肖像画制作中は城戸邸に滞在することになった彼の生活面での世話をすることを 自ら買って出たのである。 (もちろん、それは氷河の厳しい監視のもとで為されることになったが) 画家は、絵の具や画布、画架等の画材の他に、クロッキー帳やスケッチブックを相当数 持ってきていて、瞬は彼の荷物を整理する際に それらを見せてもらった。 彼の画帳には、人物、動物、静物、風景等、様々なものが描かれていたが、その素描は どれも見事なものだった。 現代の商業画家の素描の類を見るのは それが初めてだったが、物の形を捉え 写し取る画家の技術には目を見張るものがあると、瞬は思ったのである。 それは もちろん素人目で見てのことなので、褒めることも おこがましく感じられ、瞬は画家が持参した画帳のページを繰りながら感嘆の溜め息をつくばかりだったが。 「カプタインさんは、人物画が お得意と伺ってますが、風景画や静物画は描かれないんですか?」 画家が抽象画を指向していないのは一目瞭然のことだったが、彼の 物の形を捉える力をもってすれば、具象の分野では何を描いても、彼は大成しそうである。 にもかかわらず、彼の代名詞は“天才肖像画家”。 その事実が、瞬には奇異なことに思われた。 瞬に問われた天才肖像画家が、瞬の手にある画帳に ちらりと視線を落とし、首を横に振る。 「僕は、人間でないと ろくなものが描けないんです。キーノーと同じです。風景や静物は、あくまでも肖像画の添え物として描き入れるだけ。それすら滅多にしません。肖像画の背景は、その人物の心の色を描く」 「人間でないと ろくなものは描けないなんて、そんなことはないでしょう」 風景も 静物も――彼の手になる絵は、黒一色の素描でさえ、写真よりリアルに感じられるものだった。 そう告げた瞬の前には、バラの花の素描があって、それは彩色されていないのに黄バラだと わかるバラ。 瞬は画家のその言葉を、謙遜だとしか思えなかったのである。 画家は、しかし、決して謙遜しているわけではなかったらしい。 「形を捉えることはできます。でも、それだけなんです。肖像画は、モデルの姿と心を写し取ればいい。けれど風景は――画家の心を絵に込めなければならない。僕は、山や海や建築物を美しいとは思わない――思えないんです。山や海には、時間はあっても 心がないから」 天才肖像画家の口調は、あくまで控えめ。 彼は、あまり押しの強い人間ではないようだった。 「わかるような気がします。カプタインさんが描きたいのは、対象物の心。自分の心ではないんですね」 「風景画に限らず抽象画でも、あんなに自分の心を 他人に さらけ出して、僕以外の画家たちは恐ろしくないんだろうかと思います。僕は臆病なのかもしれない」 「カプタインさんは繊細で――自己顕示欲が強くないだけでしょう。自分の心を さらけ出すのは、恋人に対してだけで十分ですよね」 そう言って、瞬は、画家ではなく 氷河の方に視線を巡らし、氷河にだけ わかるように微笑した。 瞬が自分以外の男と話しているのは不愉快だが、その話に混じることはしたくないらしく、氷河は 先程から 画家の部屋の窓際に置かれた籐椅子に腰をおろし、画家と彼のモデルを 仏頂面で睨んでいた。 積極的に会話に参加するつもりはないが、無視されているのも不愉快。 そんな氷河が 不機嫌の臨界点に達して爆発するのを、瞬は防がなければならなかったのだ。 他でもない天才肖像画家の身を守るために。 瞬の気配り――というより、機嫌取り――に、氷河は素直に機嫌をよくした。 もっとも、瞬の気配りという名の機嫌取りの効果は ごく短時間で消えてしまい、氷河は すぐに 元の険しい顔に戻ってしまったが。 氷河を不機嫌にしたのは、よりにもよって、瞬が その身を守ろうとしている天才肖像画家その人だった。 「瞬さんは美しいです。とても。その目を見ただけで、瞬さんが優しく強い方だということがわかる。深い愛情、凪いだ湖面のような静けさ、燃えるような情熱、大きな悲しみ、そして希望――。瞬さんは、その心の すべてが美しい。憎悪や憤怒、弱さ、嫉妬、傲慢、人を押しのけてでもと考える野心、貪欲――そんなものが全く感じられない」 「そ……そんなことはないですよ。僕にだって、普通に――」 画家は押しの強い人間ではないようだという、瞬の判断は間違っていたらしい。 否、それは、画家の一面だけを捉えた片手落ちの判断だったらしい。 画家は、自分の言いたいことは、他人を押しのけても――他人の存在を 気に留めず 視界に入れず、はっきりと言ってしまうタイプの人間であるようだった。 「瞬さんのように美しい人の肖像画を描くことは難しいんです。大抵の人は、憎悪や憤怒や欲望、悲嘆といったマイナスの要素を心の内に持っていて、それらを肖像画に描き込むことによって、絵には奥行きが出てきます。深みがある絵になる。ですが、瞬さんは美しいもの、清らかなものだけでできている。力量のない者が 瞬さんを描くと、おそらく その画家は、綺麗なだけの薄っぺらい絵しか描けない。瞬さんを描くには、瞬さんの美しさや清らかさの深さを描く力量が必要です。僕にも、瞬さんを描き切る自信はない。瞬さんは 本当に稀有な人です……!」 気負い込んで――二つの手を拳の形に握りしめて、画家が言い募る。 今にも 彼のモデルの手を握りしめてきそうな画家の熱意と迫力に、瞬は気圧された。 「ですから、僕はそんなに大層な人間では――」 「いいえ。瞬さんは素晴らしい。僕の画才は、瞬さんの深さに負けるかもしれない。でも、挑戦したい。モデルになる人を見て こんな気持ちになったのは、僕は これが初めてです!」 「え……あの……」 聞きようによっては口説き文句にも聞こえる画家の熱心な告白。 瞬は、彼にそっくりな人間を一人知っていた。 尋常のことでは 到底 勝てそうにない強敵に対峙した時の星矢、そういう時の星矢の、小さな太陽のように輝き燃える瞳。 画家の燃えるような眼差しは、稀有な強敵に出会った時の星矢のそれに酷似していた。 画家は あくまでも画家として、稀有なモデルとの対決に燃えている。 それは瞬には わかっていたし、おそらく氷河も わかっているはずである。 問題は、それが画家としての言葉であれば、天才肖像画家の その発言を、氷河が許容できるのか否かということだった。 ――室温が、急激に下がり始めた。 氷河が、掛けていた椅子から立ち上がる。 「氷河……」 瞬は画家の身を守るために、慌てて氷河の側に駆け寄ったのである。 画家の目があるが、背に腹は代えられない。 そのまま氷河に抱きつき、 「ひょ……氷河、さっきから震えてるみたいだけど、寒いの? 身体が冷え切ってるよ」 瞬は、画家に聞こえるように 大きな声で そう言った。 「そういえば、少し寒くなってきましたね。氷河さん、大丈夫ですか。風邪なんか ひかないでくださいね。その見事な造形の お顔をマスクで隠すなんて、もったいない話です」 画家が 絵の制作以外のことに関しては驚くほど鈍い人間であることに、瞬は心から感謝したのである。 画家は、彼の眼前で繰り広げられる氷河と瞬の抱擁シーンに 全く動じることなく、氷雪の聖闘士の風邪の心配をしている。 氷河は氷河で、瞬に抱きつかれたことで、その機嫌を直したらしい。 室温は、まもなく元の温度に戻った。 危機一髪のところで画家の身の安全が守られたことに、瞬は安堵の息を洩らすことになったのである。 |