氷河と瞬の抱擁シーンにも 観光にも興味がないらしい勤勉な画家は、翌日から早速 彼の仕事に取りかかった。
最初は、肖像画の構図を考えることと、そのためのモデルのクロッキー。
画家に 普段通りにしていて構わないと言われたので、特に画家の前に椅子を運び 静かに着席しているようなこともせず、瞬はいつも通りの生活をしていた。
氷河の機嫌を取り、仲間たちと歓談し、庭の散策や読書、城戸邸のメイドたちの手伝い。
画家は特に 瞬が運動をするのを喜んだので、瞬は画家のために ジムでサーキット・トレーニングをしたり、城戸邸の周囲をジョギングしたりもした(もちろん、本当の運動能力は隠しておかなければならなかったが)。
画家は、瞬が思っていた通り、星矢や紫龍も大層 気に入ったようで、城戸邸を画家にとってのエリシオン、アルカディアだと言い、意欲的に素描を続けていた。

瞬は、画家の手が ごく短い時間で自分の姿を紙に写し取っていく様に大いに感嘆し、画家は、瞬のリクエストに応えて 瞬の仲間たちのスケッチもしてくれた。
そんなふうに、数日間が 楽しく過ぎていったのである。
その間、瞬の身に特別なことは何ひとつ起こらず、瞬は 肖像画の呪いのことなど すっかり忘れ去っていた。
しかし、画家が モデルとの間にカンバスを置き 本格的に下絵を描き始めると、平和で楽しかった それまでの状況は一変してしまったのである。

画業と その作品以外のことでは 控えめで物静か、卑屈の気味さえあるようだった青年は、カンバスに向き合った途端、獲物を狙う肉食獣の目を持つ男に変貌した。
睨むような、挑むような――むしろ、噛みつくような その視線。
それは、生死がかかった戦いに臨んだ聖闘士でも ここまで険しい目にはならないと思えるほど。
カンバスに向かう画家の視線に比べれば、機嫌が悪い時の氷河の睥睨すら 聖母マリアの慈愛の眼差しのようなものだと、瞬は感じることになったのである。
気の弱い人間なら逃げ出す。
心臓に支障のある人間なら、その鼓動を止めることさえあるかもしれない。
ハンス・キーノーの再来という評判、モデルは彼の描く肖像画に魂を吸い取られるという噂も 根拠のないことではなかったのだと、瞬は思わずにはいられなかった。

そして、瞬が若い男と向き合っていることに機嫌を損ねているようだった氷河の表情もまた、画家の下絵作業が始まって1時間もしないうちに、患者を見守る主治医のそれに変わってしまったのである。
もっとも、医者は、患者の具合いがどれほど悪くなっても、その身体を抱きしめるようなことはしないだろう。
だが、氷河は それをした。
そうしなければ、瞬が倒れてしまいそうだったから。
瞬は、画家が選んだ部屋に立っていたわけではなく、椅子に腰掛けていたのだが。
それ以前に、瞬は、体力も運動能力も、一般人のそれを凌駕するものを持っているアテナの聖闘士だったのだが。
「やめろ! 瞬の頬に血の気がない!」
「え?」

1時間以上、ろくに瞬きもせずに瞬だけを見詰めていながら、いったい この男は瞬の何を見ていたのか。
氷河の そんな苛立ちを感じ取り、瞬は 意識して強く、自分の身体を抱きかかえている氷河の腕にすがりついていったのである。
それが 氷河の気持ちを和らげる最も効果的な対処方法だということを、瞬は知っていた。
「氷河、怒らないで。彼は、モデルの心を見てるの。外見は もう、昨日までで見終わってる。僕が、自分の心を見透かされるのが恐くて、緊張しすぎたんだよ」
「おまえに、見透かされて困ることなどあるか。俺じゃあるまいし」
「僕にだってあるよ。人に見透かされたくないこと」
「嘘をつけ」
「僕が氷河をどんなに大好きか、とか」
「機嫌を取らなくてもいい。俺は怒っていない」
「機嫌を取ってる つもりじゃないの。でも……」
目を閉じて、氷河の胸に 頬と肩を傾ける。
画家の視線は、氷河の身体で遮られている。
それだけで、瞬の 貧血にも似た症状は治まってしまっていた。

「氷河の側にいたら、気分がよくなってきた。もう、大丈夫だよ」
そう告げる瞬の顔を、氷河が じっと見詰める。
真っ青だった瞬の頬には血の気が戻っていた。
氷河が短い吐息を洩らし、瞬の身体を その腕で抱え支えたまま、画家の方を振り返る。
「今日はここまでだ」
「は……はい。気付かなくて、すみませ――」
「初日だからって、僕が緊張しすぎたの。ごめんなさい」
画家は 謝罪しなければならないようなことをしていない。
瞬は、自分が先に謝ることで、画家の謝罪を遮った。

「僕の方こそ、瞬さんをモデルにして不様な絵は描けないと、気負いすぎて――」
「今日は仕舞いだ」
画家の言い訳を聞きたくなかったのか、画家を庇う瞬を見たくなかったのか、その両方か、画家の弁解を遮ったのは、瞬ではなく氷河だった。
画家と瞬を同じ空間に置きたくないと言わんばかりに慌ただしい所作で、氷河が瞬の身体を抱き上げる。
もう大丈夫だと訴えて訴える瞬の言葉に耳も貸さず、氷河は そのまま瞬を瞬の部屋に運んだ。






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