しかし、結局 翌日も、前日と同じことが起きた。
瞬自身はリラックスしているつもりなのだが、画家の視線を感じると、勝手に神経が昂っていく。
瞬が倒れる直前に 氷河が作業の中断を宣言し、画家の目が瞬に注がれなくなると、瞬の不調はすぐに回復。
3日目も、4日目も、5日目も同様。
同じことが続くせいで、瞬は むしろ そうなることを自然なことと考えるようになってしまったのである。
尋常ならざる才能を持った画家に見詰められて緊張するのは 当たりまえのこと。
画家の目が逸らされた途端に緊張から解放され、不調が治まるのも当然のこと。
当然で当たりまえのことが繰り返し起きているだけなのだと。

緊張から解放されたあとも不調が続くなら問題だが、すぐに回復するのなら、限界を超える前に 作業を中断して休憩を入れればいいだけ。
限界の見極めは、氷河が的確に行なってくれる。
ゆえに自分が画家のモデルを続けることには何の問題もない。
瞬は、画家にも氷河にも そう告げて、憂い顔の画家に肖像画の制作を続けさせた。
そんな画家とモデルの横で、日を追うにつれ、氷河の機嫌は悪化の一途を辿っていった。

「ゴヤの“我が子を食らうサトゥルヌス”。貴様は、あのサトゥルヌスのようだ。瞬を――モデルを食らい尽くして、自分だけが いつまでも生き続けようとする」
やがて、氷河は、悪意も害意もない画家に、そんな言葉を投げつけるようになった。
氷河が肖像画制作をやめさせたがっていることは明白で、氷河が力づくで その作業を中断させないのは、それがアテナの指示によるものであり、瞬が やめたくないと思っているから。
そんな言葉を吐くことによって、氷河が 自身を抑えているのだということは、瞬にもわかっていた。
だが、氷河の機嫌は どんどん悪くなっていく。
まさか一般人相手に腕力で訴えるようなことはしないだろうが、不機嫌の臨界点に達すると、アテナの聖闘士である氷河は、意識しなくても その小宇宙で“敵”への攻撃に及んでしまうかもしれない。
瞬は、そうなる事態を懸念していた。

「ただの緊張なんだよ。すぐに元気になるんだから」
「何が緊張だ。おまえはアテナの聖闘士なんだぞ。心臓の弱い老人でも、人前に出たことのない箱入り娘でもない」
すぐに回復するとはいえ、画家の視線に さらされるたびに モデルの具合いが悪くなるのは事実なのだから、氷河は 瞬の訴えを一向に聞き入れず、瞬も氷河を説得しきれない。
おかげで瞬は、毎日、絵のモデルだけでなく、氷河をなだめる仕事まで こなさなければならなくなってしまったのである。
もっとも、絵のモデルと違って、瞬は、氷河をなだめる仕事には慣れていたし、熟練してもいた。
その仕事を好きでもあったので、氷河をなだめる作業は、瞬には何の苦にもならなかったのだが。

「そう。僕はアテナの聖闘士で、体力も精神力も 普通の人よりずっと強靭。そんなに心配なら、僕が元気だってことを、氷河が自分で確かめて」
ベッドに腰をおろし、そう言って 氷河を誘う。
画家の目のないところでは 瞬が健康そのものであることを知っている氷河は、その誘いに抵抗できない。
忌々しげに舌打ちするようなことはしても、氷河は すぐに瞬の身体を抱きしめ、瞬の頬や首筋に唇を押しつけてくるのだ。
そんな氷河の背に腕をまわし、瞬が すかさず彼の耳元に囁く――。

「ウィレムは、自分の絵が人の命を奪ってしまったのかもしれないっていう不安に苛まれているんだから、氷河、もう少し彼に優しくしてあげなきゃ駄目だよ」
「優しくだと? あんなに 食い入るように おまえを見る男にか」
「我が子を食らうサトゥルヌだなんて、あんなことを言って ウィレムを責める権利は氷河にはないよ。僕を食らっているのは氷河の方でしょう。あ……っ」
ベッドの上に横たえた瞬の身体の とある場所に、氷河が 親指の腹で そっと触れてくる。
途端に、まるで水の中から 引き上げられた魚のように、瞬の身体は小さく 撥ねることになった。
いつもと同じ反応に、氷河は安堵し、そして気をよくしたらしい。
氷河は、画家への非難をやめ、瞬の身体を愛撫する作業の方に意識を集中し始めた。

「食べてしまいたいほど可愛いと思っていても、本当に おまえを食らうほど、俺は馬鹿じゃない」
瞬の身体を撫でまわしながら、不機嫌の色を薄くして、氷河が言う。
瞬は身体の方は健康そのもので、これまでと変わったところはないし、特に衰弱してもいない。
瞬当人より、氷河は その事実を知っている。
氷河が知っていることを、瞬も わかっていた。
これまで いつも そうだったように、氷河に触れられると気持ちがいい。
冷却系の技を駆使する氷雪の聖闘士が、こんなふうに 恋人の身体を熱くする技に長けているのは矛盾しているのではないかと、瞬は時々 氷河に尋ねたい衝動にかられることがあった。

「あ……あ……んっ……」
食らいはしないが、舐め 味わうことはする。
氷河の唇の感触。
時々、舌が 瞬の肌を からかってくる。
耐えきれずに 瞬が声を洩らして 身体を反らせると、氷河は 浮きかけた瞬の身体をシーツの上に押し戻し、喉の奥から低い笑い声を洩らした。
「俺は、絵は描けないが、地図なら書けるぞ」
「あ……地図……?」
少しずつ 瞬の思考には霞が かかり始めていた。
氷河の愛撫が もたらす心地よさに 浸り切りたくて、瞼を開けることすら億劫になっていく。

「おまえの身体の地図だ。どこに触れると、いい声で鳴いてくれるとか、地盤が弱くて崩れやすいところ、ガードが堅くて 執拗に攻めなければならないところ、甘い蜜が隠されているところ、それから、俺を天国に連れていってくれる道――」
「氷河にしか使えない地図なんて作らなくていいの。氷河は、僕が元気でいるってことをわかってくれさえすれば……僕が今 すごく気持ちいいってことさえ、わかっててくれてれば……ああ……!」
「見ることで、その相手に災いをもたらす魔眼というのがあるそうだが……」
氷河が何か言っていたが、その言葉の意味を理解するより、氷河に与えられる熱の心地よさに浸っていたい気持ちの方が強い。
瞬が氷河に腰を押しつけていくと、氷河は完全に彼の不機嫌を忘れてしまったらしい。
瞬の足首を掴んで、彼は いつも通りに荒々しい獣に変貌していった。






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