氷河王子は、ハーデス城の地下にある冥界へ続く闇の穴にも 臆することなく飛び込み、ずんずん先へ先へと進みました。
アケローンの河は、瞬が その澄んだ瞳の力を発揮するまでもなく、愛の力で凍りつかせ、悠々と徒歩で渡りました。
地獄の番犬ケルベロスも一撃で倒し、次々に襲い掛かってくる冥界の闘士たちも、そのたびに 一瞬で撃破しました。

本当は、おとぎの国では、それは あまり良くない解決方法だったのですけれどね。
良いことをして、敵対する者たちの心を和らげて先に進むのが、おとぎの国の正しい試練の乗り越え方なのです。
ですが、氷河王子の愛の力(含む欲望)は、おとぎの国のルールを寄せ付けないほど強いものでした。
嘆きの壁には少々 手こずりましたが、氷河王子の愛の力(含む欲望)は、ビッグバンに匹敵する強大な力を持っていました。

そうして。
ついに辿り着いたエリシオンの野。
そこは 本来は、神ならぬ身の人間には足を踏み入れることが許されない特別の場所でした。
けれど、今の氷河は、普通の人間でありながら、愛(含む欲望)の塊りのような存在でしたから、きっと そのせいで平気だったのでしょう。

人間でありながら、愛(含む欲望)そのもの。
今の氷河王子が特別な存在であることに気付いたのか、本当であれば敵であるはずのエリシオンを守る二柱の神――眠りを司る神ヒュプノスと 死を司る神タナトス――は、氷河王子に対して攻撃を仕掛けてきませんでした。
それどころか、
「人間にしか解くことのできない封印を解いて、魔法の壺に封じられているハーデス様を解放してほしい」
と、氷河王子に頼んでくる始末。
壺の中に封印されていたのではハーデスに会うことができませんから、二柱の神の依頼は氷河王子にとっても好都合。
氷河王子(と瞬)は、途中 いろいろありましたが、ヒュプノスとタナトスの案内で エリシオンにあるハーデスの神殿に行き、そこに置かれていた魔法の壺の、人間にしか解くことができない封印を解いてやったのです。
封印の壺から解放されたハーデスの魂が、同じ神殿内に安置されていた彼の実体に宿り、ハーデスは めでたく復活を果たしたのでした。

冥府の王は 随分長いこと眠っていたらしく、実体と魂の融合を果たしても、しばらく寝ぼけた顔をしていました。
気が急いていた氷河は、そんなハーデスに『おはよう』も言わず、これまでの事情を説明し、自分に与えられた予言を無効化してくれるよう、彼に頼んだのです。
「貴様には もともと娘がいないんだから、そうしたからといって、特に問題も起きないだろう。貴様が『予言は無効』と宣言してくれれば、それで終わりだ」

「んー……」
ハーデスが 寝起きに機嫌の悪いタイプだったのか、根っから意地悪な神だったのか、それとも 氷河王子の頼み方が今ひとつ丁寧でなかったのが よくなかったのか、それは氷河王子にもわかりません。
ただ一つ確かなことは、冥府の王が氷河王子の頼みを退けた――という一事だけ。
「なぜ、余がそんなことをしなければならないのだ。余のあずかり知らぬところで為された予言の無効化? そんなことは、余の知ったことではない」
冥府の王は そう言って、つんと横を向いてしまったのです。

人間をここまで連れてきたことをハーデスに責められることを恐れたのか、ヒュプノスとタナトスは 慌てて氷河王子とハーデスの間に入り、両者の執り成しを始めました。
「ですが、ハーデス様。この者たちは、ハーデス様の呪いの壺の封印を解いてくれたわけですし」
「ヒュプノスの言う通りです。ハーデス様の解放には、それほどの価値があります。この者たちに、ささやかな良い報いを与えてやってもよろしいのではありませんか」
「それは、そなたたちが勝手に依頼し、この者たちが勝手にしたこと。余が頼んだわけではない」
「そ……それはそうですが」
「だいいち、そなたたち――特にタナトス。そなたは、余より人間を嫌っていたではないか。なぜ人間の肩を持つようなことをするのだ。人間の分際で このエリシオンに足を踏み入れるなど、なんたる不敬、なんたる傲慢。さっさと その思い上がった人間の命を奪って、コキュートスにでも放り込んでしまえ」
「そ……そういうわけには――」

ハーデスの命令に困惑したように、ヒュプノスとタナトスが、なぜか ちらちらと瞬を横目で見やります。
ハーデスは、人間嫌いの神たちが なぜ冥府の王の命令に すぐに従わないのか訝ったようでした。
その答えを探ろうとして 二柱の神の視線を追ったハーデスは、二つの視線の先にあるものを見て、突然 態度を軟化させました。
条件付きで、氷河への予言を無効化してやってもいいと、ハーデスは言い出したのです。
けれど、その条件は、実に とんでもないものでした。
「その者――瞬と申したか。瞬を余の許に残していけ。さすれば、そなたへの予言を無効にしてやろう」
そう、ハーデスは氷河王子に提案してきたのです。

そんな条件を『はい、わかりました』と、素直に呑むことができるものでしょうか。
たとえ太陽が西から昇り、アリがゾウを踏み潰すようなことがあっても、それは氷河王子には到底 受け入れられない条件でした。
「冗談じゃない! それじゃ、本末転倒もいいところだ。俺は、瞬のために 俺への予言をなかったことにしたいんだ!」
「そのようなこと、余は知らぬ。余は、その者が欲しいのだ。その者の清らかな魂、澄んだ瞳、肉体も清らかなままのようだ。余は瞬が欲しい」

瞬の清らかな肉体を抱きしめたくて冥府までやってきた男に向かって、よくも言ってくれたもの。
氷河王子は かっと頭に血がのぼり、ただの人間の身でありながら、神であるハーデスの顔を ぶん殴ってやろうかと思ったのです。
実際 氷河王子は、その右手を拳の形に握りしめさえしました。
そんな氷河王子を止めたもの。
それは、
「僕、ここに残ります」
という、瞬の静かな声でした。
「瞬!」
瞬の言葉に驚き、氷河王子は大きな声で瞬の名を呼びました。
ほとんど非難するような声音で。
そんな氷河王子を、その声同様 静かな眼差しで瞬が見詰めてきます。

「僕の望みは、氷河が幸せになることなの。そのためになら、何だってする。何だってできる。僕自身がどうなっても構わない」
「瞬!」
瞬の決意を聞いた氷河王子の非難の声は、そのまま悲鳴じみたものに変わってしまいました。
瞬は どうしてわかってくれないのだろう――と、氷河王子は思ったのです。
瞬を恋する男の幸せがどういうものなのかを、なぜ瞬はわかってくれないのかと。
「俺の幸せは、おまえと一緒にいることだ! 他に、俺が幸せになる道はない!」
「でも、氷河……」
「うるさい! おまえは、俺と一緒に地上に帰るんだ!」
氷河王子は、それ以上 瞬の訴えを一言も聞きたくありませんでした。
とはいえ、瞬を怒鳴りつけ責めても何にもなりませんから―― 一層 悲しくなるだけですから――氷河王子は 代わりにハーデスを怒鳴りつけたのです。

「俺への予言を無効にしろ! ぐだぐだ詰まらんことを言ってないで、俺と瞬を地上に戻せ!」
「それはできぬ」
「できない? できないんじゃなくて、しないだけだろう。さっさと、俺への予言をなかったことにしろ!」
ハーデスが『そなたへの予言は無効』と言えば、それで済む話。
意地でも そう言わせてみせると、氷河はハーデスを睨みつけました。
ところが、ハーデスは、
「しないのではない。できぬのだ」
と、たわ言を繰り返します。

「できない……? 本当にできないのか?」
嫌な予感に囚われた氷河王子が、少し激昂を静めて問い返すと、ハーデスは氷河王子に ゆっくり深く頷き返してきました。
「できぬ。当然だろう。そなた、この世界のルールを忘れたのか。『良いことをした者には、良い報いを。良くないことをした者には、それにふさわしい報いを』。そなたは 良いことを何もしていないであろう」
「なに?」
それは、氷河王子には思いがけない指摘でした。






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