『良いことをした者には、良い報いを。良くないことをした者には、それにふさわしい報いを』
それは決して破られることのない おとぎの世界のルールです。
氷河王子は、そのルールを ある程度の妥当性を持つルールだと思っていました。
ですから、氷河王子は これまで(あまり)悪いことはせずにいたつもりでした。
氷河王子は 今の今まで考えたこともなかったのです。
『良いことをした者には、良い報いを。良くないことをした者には、それにふさわしい報いを』
そのルールには、何も――良いことも悪いことも――していない者は どんな報いも得られないという意味が内包されているのだということを。
ハーデスは、何もせず、ただ無為に自分の生を生きていた者のためには 何もしてやれない――と言っていました。

「何も良いことをしていない者に 幸運を与えたら、余は、この世界の法則を破ることになる。妖精や魔法使いレベルの者ならまだしも――余が そんなことをしてしまったら、神が この世界の秩序を乱すことになるではないか」
それはそうです。
それは、ハーデスの言う通り。
ですが、氷河王子に そう言ってのけるハーデスの目は、妙に楽しそうに笑っていて――氷河王子には、冥府の王が意地悪で そんなことを言っているのだとしか思えなかったのです。
おそらくは、瞬を手に入れるために。
むっとして、氷河王子は冥府の王を睨みつけました。

「俺が良いことをしていない? 俺は、貴様の肩でも揉んでやればいいのか」
「それでもよかったのだが、既に手遅れだな。これから そなたが余のために良いことをしても、それは、自身への予言の無効化という報いが欲しいからだ。だが、幸運という報いを得ることのできる善行は、欲望からではなく、報いを期待しない心で為されることが大前提。つまり、そなたが これから余のために どのような良いことをしても、それは無意味無駄ということだ」
「う……」

人間は――大抵の人間は、自分の欲望や願いを実現するために 何かをします。
美味しいものを食べたい、綺麗な服を着たい、立派な家に住みたい、権力を得たい、財を蓄えたい、他人に尊敬されたい、愛する人に愛されたい――。
人は そのために努力し、その努力は報いられることもあれば、報われないこともあります。
それは、おとぎの国も 外の世界と同じ。
ですが、幸運は 努力では得られません。
思ってもいなかった幸運。
それは、報いを期待して行なう努力ではなく、報いを期待しないで行なった“良いこと”によって もたらされるもの。
おとぎの世界では、その“良いこと”に対する報いが必ずあり、外の世界では 必ず報いが得られるわけではない。
おとぎの世界と 外の世界の違いは、要するに、ただ それだけなのです。
そして、氷河王子は おとぎの世界の住人。
良いことをしていなければ、良い報いを得ることのできない おとぎの国の住人なのでした。

「余の封印を解く前に、そなたが余のために良いことをしていたら、話は別だったのだが、残念だったな」
反駁の言葉を思いつけずにいる氷河王子に、ハーデスは勝ち誇ったように言いました。
氷河王子は、けれど、もうハーデスの言葉など聞いていなかったのです。
良いことを何もしなかった過去は、もはや修正することはできません。
良いことをせずにいたばかりに、今 幸運を手に入れることのできない自分は、これから何をすべきなのか。
どうすることが、二人にとって――瞬にとって――最もよいことなのか。
氷河王子は その答えを見付けなければならなかったのです。
氷河王子は、そのために 瞬に訴えました。

「瞬、俺の幸せは おまえが幸せでいてくれることだ。おまえが俺のための犠牲になることなく」
「氷河……」
「俺はどうすれば、おまえを幸せにしてやれる? 俺には わからない。場所が地上でも冥界でも、俺は おまえと共にいたい。おまえは? おまえの幸せは? おまえの……本当の幸せは何だ」
いつもいつも自分が幸せになることばかり考えて、そんな大事なことを瞬に確かめたことがなかった自分自身を、氷河王子は 今 とても深く後悔していました。

瞬に対してだけではありません。
亡くなったお母様に対しても、新しいお母様に対しても、いいえ、自分以外のすべての人に対して、言葉にすることまではしなくても、その人の幸福は何なのかということを考え 思い遣ることができていたら、自分は 瞬を、亡くなったお母様を、新しいお母様を、多くの人を、もっと幸せにしてやることができていたはず。
なのに なぜ、自分はそれをしなかったのか。
ほんの少し、相手の心を思い遣る気持ちを持っていれば、自分は今 こんなところで、こんなふうに、切ない色をたたえた瞬の瞳を見ていることもなかったのに――。

今、氷河王子は後悔していました。
とてもとても深く後悔していたのです。
そんな氷河王子のために、瞬は微笑を作ってくれました。
それは、胸がしめつけられるような――悲しく切ない微笑でした。
「氷河……。氷河が そう思ってくれるだけで、僕は幸せだよ。氷河は地上に帰って。氷河には お陽様の光が似合うから」
瞬には笑顔が似合います。
なのに今、瞬は笑っていません――笑っているのに、泣いています。
こんな瞬を冥界に一人残し、自分だけ地上に戻って のうのうと生き続ける。
そんなことができるものでしょうか。
氷河王子には そんなことはできませんでした。
“しない”のではなく――できなかったのです。

「俺一人だけが地上に戻ることはできない。絶対に」
「氷河……そんな我儘 言わないで。氷河はおとぎの国の王子様なんだよ」
「我儘なものか!」
『そうして二人は いつまでも幸せに暮らしました』
そこに至ることが、おとぎの国の王子様の至上義務。
瞬と二人でなければ幸せになることのできない おとぎの国の王子が、愛する人と共にいたいと願うことの何が、どこが、我儘だというのでしょう。
氷河王子は、そう 瞬に訴えようとしました。
その時。
「畏れながら、ハーデス様。この者は、ハーデス様がお目覚めになる前に、ハーデス様のために良いことをしております」
と言って、冥府の王の前に跪いた者が一人――いいえ、二人いました。
それは、これまで氷河王子とハーデスの横で すっかり傍観者になってしまっていた、眠りを司る神ヒュプノスと 死を司る神タナトスでした。

「なに?」
ハーデスが、二柱の神の進言に 僅かに眉をひそめます。
ヒュプノスとタナトスは、更に深く(こうべ)を垂れて、ハーデスへの進言を続けました。
「この者は、エリシオンの神殿に来て、ハーデス様のお身体が眠っている広間を通って、この奥の宮に参りました。ですが、なにしろ神話の時代からの古い神殿、宮を支える幾本もの柱には亀裂が入り、それらの柱と 柱が支えている天井が崩れそうになっていたのです」
「この者は、ハーデス様のお身体が崩れかけた天井の下敷きにならぬよう、亀裂の入った柱と崩落しかけていた天井を凍りつかせ、ハーデス様の大切なお身体を守ったのです」
「なんと……!」

氷河王子は北の氷雪の国の王子様ですから、凍気は彼の家来。
ヒュプノスとタナトスが言った通りのことを、氷河王子は確かに実行していました。
現に今、この神殿の天井は入り口から奥の宮まで すべてが、決して融けることのない絶対零度の氷で 凍りついています。
超強力な接着剤で補修補強されたみたいに。
それは事実です。
けれど、氷河王子には、ヒュプノスとタナトスが なぜ そんなことをハーデスに告げるのか、その訳がわからなかったのです。
ヒュプノスとタナトスが言ったことは事実です。
氷河王子は 確かにそれをしました。
ただし、それは、エリシオンの神殿の寝台に横たわっているハーデスの身体を見付けて駆け寄っていった瞬が怪我をしたら大変だと思ったから。
氷河王子は、瞬の身を守るために、慌てて 即席補修工事をしたのです。

それは、ヒュプノスとタナトスも知っているはず。
にもかかわらず、二柱の神は、それがハーデスのために為されたことのように、ハーデスにとって良いことであるかのように、彼等の主人に報告してくれているのです。
彼等の親切の訳が、氷河王子には まるで わかりませんでした。
もちろん、ここで『それは事実と違う』なんてことを言い立てて、ヒュプノスとタナトスの親切(?)を無にするようなことは、氷河王子はしませんでしたけれどね。

二柱の神の報告を聞いて、ハーデスは ものすごーく機嫌を悪くしたようでした。
そして、ものすごーく困ったようでした。
冥府の王の美しい肉体を守った――ハーデスにとって、これ以上に“良いこと”はありませんでした。
本来であれば、これ以上ないほど良いことをした氷河王子に対して、ハーデスは これ以上ないほど良い報いを授けてやらなければなりません。
けれど、ハーデスは瞬が欲しかったのです。
とてもとても欲しかったのでした。

「し……しかし、その清らかな美形は余の好みのタイプなのだ」
「そうは申しましても……。『良いことをした者には、良い報いを。良くないことをした者には、それにふさわしい報いを』、因果応報、積善の余慶、積悪の余殃は、決して破られることがあってはならない、この世界の絶対のルールです。妖精や魔法使いレベルの者ならともかく、神であるハーデス様が そのルールを破るのは いかがなものかと」
建前論で氷河王子の願いを退けたハーデスに、建前論で抗するヒュプノス。
「うぬぅ……」
建前論に建前論で負けた形で、結局 ハーデスは折れるしかありませんでした。
「――仕方がない。わかった。そなたへの予言は無効だ」
悔しそうにハーデスが 氷河王子に宣言し、
「やった!」
氷河王子は、その宣言に歓声をあげました。
思いがけない二柱の神の助っ人で、氷河王子は 願いを叶えることができたのです。
試しに、氷河王子が瞬の身体を抱きしめようとすると――氷河王子は 今度はしっかりと瞬の身体を抱きしめることができました。

「瞬……!」
「氷河!」
そこが神の御前だということも失念したように、二人はしっかりと互いを強く抱きしめ合いました。
なんて素敵なことでしょう。
氷河王子への予言は、確かに無効になっていました。
氷河王子と瞬の恋は実ったのです。
嬉しさのあまり、氷河王子は その場で 派手に白鳥の舞を踊り出しそうになりました。

ですが、氷河王子は、喜びのダンスを踊ることは 直前で思いとどまりましたよ。
氷河王子は、この冥界に来て 少し賢くなっていたので、ハーデスの機嫌を損ねるようなことをするのは得策ではないと考え、ダンスをする代わりに ハーデスに丁重に礼を言おうとしたのです。
(どうしても離す気になれなくて、瞬の肩は抱いたままでしたけれど)
ですが、ハーデスは氷河王子からのお礼なんて、そんなものは欲しくなかったらしく、氷河王子と瞬から わざとらしく視線を逸らして 彼の従属神たちの方を見ていたので、氷河王子は冥府の王に礼を言うことはできませんでした。






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