バロック様式の堅固な石造りの建物が並ぶサンクトペテルブルクの大通りには、純白の雪の絨毯が敷かれていた。 町の中心部には それなりの人通りがあり、すれ違う馬車も多かったのだが、それも いつのまにか見えなくなった。 馬車が サンクトペテルブルクの郊外に建つ壮麗な館の門を過ぎ、やがて 正面玄関の前で停まる。 「瞬!」 馬車から降りた途端、瞬は氷河に抱きしめられていた。 おそらくは、朝から――もしかしたら昨夜から――馬車の到着を今か今かと待ち受けていたのだろう。 氷河は、馬車が門から庭に入るのを認めるや玄関に駆けてきて、馬車がその扉を開くのを待ち構えていたに違いなかった。 屋敷の召使いたちや、瞬を この館まで運んできた馬車の御者が、館の主人の振舞いに驚き、目と口をぽかんと開いているところを見ると、おそらく 氷河はここでは滅多に感情を表に表わさない冷静な貴公子をうまく演じていたのだ。 少なくとも 氷河が人前でそんなことをするような人間ではないと思われていたのは確実だった。 それが 本来の彼からは かけ離れた評価であるにしても、今後のことを考えれば、氷河は自分を 彼の使用人たちに厳格な主人と思わせておいた方がいいのではないか。 そう思いはしても、瞬は、氷河を たしなめる気にはならなかったのである。 氷河と触れ合うのは半年振り。 ギリシャ聖域の冬とは比べものにならないほど厳しいロシアの冬の冷たい風や雪に迎えられるより、氷河の温かい胸と腕に迎えられる方がずっといい――その方が ずっと よかったのである、瞬も。 「会いたかった、会いたかった、会いたかった!」 召使いたちの目も耳も はばからず、大きな声で その喜びを訴えてくる氷河に、瞬が 小さな声で、 「僕も」 と囁くと、氷河は、生まれて初めて太陽の光と暖かさに触れた春咲きの薔薇の花のように 明るく嬉しそうな笑顔になった。 来客の案内のためにいるのだろう小間使いを無視し、館の主人自身が 瞬の手を取り、エントランスホールに賓客を招き入れる。 アテナが氷河(の任務のために)半年前に用意した館は、以前は誰の館だったのか。 金と白を基調として装飾された館は、いわゆる古いタイプの貴族趣味。 少々 派手に過ぎて、アテナの好みではないように思われた。 もちろん、氷河の趣味でもない。 サンクトペテルブルク市内に 好みの物件が見付からず、アテナは手近な館で間に合わせたのだろう。 そう、瞬は察した。 それは、アテナが、氷河を長くロシアに派遣しておくつもりはないということで、瞬には喜ばしいこと。 そう思えば、派手に過ぎる館の内装・調度にも、瞬は さほどの不快は感じなかったのである。 アテナにプレゼントされた鹿革の手袋をとり、これまた アテナにプレゼントされたセーブルの外套を脱ごうとした瞬の手に、氷河が その手を重ねてくる。 「ここでは外套は脱がない方がいい。居間の暖炉に火を入れてある」 確かに ここの気温は、外と あまり変わらない。 瞬は氷河に頷き、頷いてから、外套も まとわずにエントランスホールに並んでいる召使いたちを――お仕着せのスカートを身に着けた数名のメイドと、黒い上着を着た執事らしき男性が一人――を、申し訳ない気分で見やった。 この程度の寒さには慣れているのか、彼等は誰一人 寒さに震えているようではなかったが。 否、彼等は、この館の主人の常と違う態度に驚き、寒さを感じるどころではなかっただけなのかもしれない。 主人に仕事を奪われて ぽかんとしている使用人たちに、氷河は、 「俺の命より大切な人だ。俺の命令はきかなくてもいいが、瞬の命令はどんな無理でもきくように」 と、弾んだ声で命じた。 「僕は 氷河と違って無理なんか言わないよ」 軽く氷河を睨んで そう言ってから、瞬は召使いたちの方に向き直った。 「しばらく お世話になります。よろしくお願いしますね」 瞬は、親しみやすい笑顔を作ったつもりだったのだが、この館の召使いたちは『かしこまりました』も言わずに ぽかんとしているばかり。 氷河はいったい これまで この屋敷で どれだけ厳格で気難しい人間を演じていたのだと、瞬は、“呆れる”を通り越して心配になってしまったのである。 |