外の気温は氷点下25度。 部屋の中は、外より40度は暖かかった。 もともと自身の周囲の外気温など小宇宙の力で どうとでもできるのだが、それでも 暖かい部屋に入ると ほっとする。 「あったかい」 瞬が そう言うと、氷河は やっと瞬が外套を脱ぐのに手を貸してくれた。 その外套を 部屋の入口近くに控えていた小間使いの一人に渡し、 「温かいお茶を。俺の好みは無視しろ。瞬は甘党だ。ハルヴァでもチョコレートでも果物の砂糖漬けでも、とにかく甘いものを」 と命じる。 「かしこまりました」 命じられた小間使いが部屋を出ていくと、そこに残って次の命令を待っていた もう一人の小間使いを、氷河は不機嫌そうに睨んだ。 「おまえも一緒に行って、お茶の支度を手伝ってこい。俺は これから ここで、念入りに瞬との再会を喜ぶから、お茶の支度は ゆっくり時間をかけてしろ」 ロシアの都で貴族の当主の振りをしているうちに、氷河は権力者の横暴と気まぐれを身につけてしまったのだろうか。 そんな指示の出し方では、お茶の支度を命じられた者も、準備したお茶を運んでくるタイミングがわからなくて困ることになるだろう。 「1時間くらい、二人だけにしてくださいね」 瞬が、慌てて、二人目の小間使いに追加の指示を出す。 彼女はやはり 瞬が懸念したことを案じていたらしく、瞬の具体的な指示に ほっと安堵の表情を浮かべ、深くお辞儀をして 部屋を出ていった。 小間使いが出ていくと、氷河が、 「会いたかった」 を繰り返して、瞬を抱きしめてくる。 そんな氷河に、瞬は キスも許した。 瞬が そのキスに 氷河以上に熱烈に応えてやったのは、瞬自身がそうしたかったという事情もあるが、ここで氷河にキス以上のことをさせないためでもあった。 『お茶を運んでくるのは1時間に』と、具体的な時間を小間使いに伝えたのは、よい対処だったのだろう。 キスに時間をかけすぎて、それ以上のことをするには 時間が足りない。 瞬の目論み通り、氷河はそれ以上の行為には及ばなかった。 「本当に、本当に、会いたかった」 氷河が 同じ言葉を繰り返すのは、彼の語彙が乏しいからではなく、それが彼の心底からの切実な願いだったからなのだろう。 その気持ちは瞬とて同じ。 氷河が その言葉を繰り返す気持ちは、瞬にもわかりすぎるほどにわかっていた。 だが、氷河には少し 落ち着いてもらわないと まともに話もできない。 瞬は、 「それは僕も同じだけど、他に言うことはないの」 と、意識して素っ気なく、氷河に尋ねていったのである。 「ん?」 氷河が一瞬、ごく微かに首をかしげ、すぐ自分の不手際に気付いた顔になる。 満面の笑顔のまま、彼は、 「ああ、悪かった。おまえは 相変わらず綺麗で可愛いぞ。いや、最後に会った時より倍も綺麗だ」 と、実に的外れなことを言ってきた。 「そんなことじゃなくて……!」 わざとなのか、本気なのか。 恋人との再会を 率直かつ素直に喜んでみせないアンドロメダ座の聖闘士を責めるために 氷河はそんなことを言っているのか、あるいは 本当に他に言うべき言葉を持っていないだけなのか。 瞬は氷河の真意を探るように彼の青い瞳を覗き込み――そして、少しばかり 嫌な予感に囚われた。 「氷河、僕が何をしにロシアまで来たのか――何のためにロシアに行くように命じられたのか、知ってる?」 「知らん。おまえが来てくれると連絡をもらって、それからずっと俺の頭の中は お花畑状態だったからな。いや、むしろ秋か。一日千秋の思いで、おまえの到着を待っていた」 「今は冬だよ」 小間使いがお茶を運んでくる前に、確認すべきことを確認しておきたい――瞬は そう思っていたのだが、どうやら それは、氷河が遠来の客に協力的であったとしても実現不可能な望みだったらしい。 「氷河も聞いてないの……」 落胆した声で呟いた瞬を見て、氷河は不満そうに その口をとがらせた。 「俺に会うこと以外に、何か目的があるのか? アテナは、おまえに何を命じたんだ」 「それが……ただロシアに行けとしか――」 アテナは 瞬に具体的な指示は出してくれなかった。 自分が何のためにロシアに派遣されるのか、ロシアに行って 自分は何をすればいいのか。 それがわかってさえいれば、瞬とて もう少し素直に 氷河との再会を喜ぶことができていたのである。 ロシアへの派遣の目的がわからないから、その目的を確認することが、今の瞬には 他の何よりも優先されるべき作業になってしまっていたのだ。 「ロシアの宮廷を見物してこいとだけ――。氷河も、ロシアの宮廷内に ある程度の地歩は固めた頃だろうからって。僕が何をすべきなのか、本当に何も言ってくれないから、氷河が何か聞いているのかと思っていたんだけど……」 どうやら、そうではなかったらしい。 白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士。 地上の平和と安寧を守るために戦うことを生業としているアテナの聖闘士が二人もロシアに派遣されることになった訳を、氷河も知らされていないらしい。 いったいアテナの目的は何なのか、それがわからないことが、瞬の中に焦慮の思いを生んでいた。 もともと氷河のロシア派遣からして、いつもと様子が違っていたのだ。 それまでアテナの聖闘士として聖域とアテナを守っていた氷河に、ロシアの宮廷に行くようにとの命令が下ったのが、今から半年前。 氷河は、ロシアの宮廷に行って、エリザヴェータ女帝に近付き、懇意になれと命じられていた。 まさか女帝が邪神の徒なのかと、おそらくは、アテナから その指示を出された氷河自身も半信半疑で乗り込んできたロシア宮廷。 だが、ロシアの宮廷内に そんな雰囲気は全くなかった――その報告は、瞬も聖域で聞いていた。 ロシア宮廷内の有力者(= 女帝の取り巻き)の中に不審な人間がいるのかと、氷河は そのあたりのことも探ってみたらしいのだが、そんな様子もない。 地位や権力、支配者の寵愛を奪い合う宮廷でのこと、不審な人間はいくらでもいたが、彼等は 普通に不審なだけで、その周辺に邪神の気配はなく、小宇宙を感じさせるような人間もいない。 そういう報告を、氷河は定期的にアテナに送り、瞬も その旨はアテナによって知らされていたのだ。 「俺を聖域に呼び戻しに来てくれたのではなさそうだな」 失望を隠さず、氷河が低い声でぼやく。 「そろそろ 氷河が寂しがっている頃だろうとは言っていたけど……」 瞬のその言葉を聞いて、氷河は失望を怒りに変えてしまったらしい。 彼は急に声を荒げた。 「そろそろ? 何がそろそろだ! アテナの命令で聖域を発った その日から、俺は毎日ずっと寂しさに耐え続けていたんだ!」 ロシアに行くようにと、氷河がアテナに命じられた時、アテナは既に氷河がロシア宮廷に潜り込みやすいようにとギリシャの伯爵位を用意していた。 アテナの命令に逆らうわけにもいかず、単身ロシアに向かい、宮廷に伺候し、ひと通りの調査もした。 だが、それが何のための調査なのか、氷河は知らされていなかった。 目的を知らされず、期限も明確でない出張。 瞬の同行もない。 氷河が この館で、厳格で気難しい主として召使いたちに認知されることになったのは、考えてみれば自然なことだったのかもしれない。 氷河は この半年間、本当に、素で、完璧に、常に、不機嫌な男以外の何物でもなかったのだ。 「でも、もう僕が来たから。僕が側にいれば、氷河は もう寂しくはないでしょう?」 怒りに任せて聖域のアテナのところにまで怒鳴り込んで行きかねない見幕を見せる氷河を、瞬は慌てて なだめ、落ち着かせようとした。 瞬に 甘えるように しなだれかかられた氷河は、それで かなり機嫌をよくしてくれたらしい。 彼は、二人掛けのソファに瞬を座らせ、その隣りの場所に陣取って 瞬の手を弄びながら、瞬に求められるまま、ロシア宮廷の現状を瞬に説明してくれたのだった。 |