ロシア宮廷の現状――。
氷河曰く、それは、“ごく普通の、ありふれた宮廷”。
王(女帝)がいて、権力者に おべっかを使う取り巻きがいて、既得権を奪われまいとして汲々とする大貴族たち、出世を狙う小貴族たち、それら貴族たちの10倍の数の使用人たち――がひしめき合っている場所。
ほとんど すべての国がそうであるように、程よく腐敗した、ありきたりな宮廷。
ただし、ピョートル大帝の西欧化政策によって、もはやロシアは辺境の野蛮人の国ではなくなっている。
貴族的な あの退廃を“洗練”と言っていいのなら、現在のロシアでは確かに 洗練された宮廷――フランスやオーストリアの宮廷と並ぶほど洗練された宮廷が営まれていると断じていいだろう――と、氷河は瞬に言った。

ちなみに、1744年現在のロシアの支配者は、エリザヴェータ女帝――エリザヴェータ・ペトローヴナ。
ロマノフ朝第6代のロシア皇帝ということになる。
女帝の父はピョートル大帝、母はエカテリーナ1世。
血統は申し分ないのだが、エリザヴェータ女帝の出生時、彼女の両親はまだ正式に婚姻していなかったため、彼女は非嫡出子ということになっていた。
その事実が彼女に不利に働いて、彼女の父ピョートル大帝が崩御すると、彼女の母エカテリーナ1世の2年の在位、ピョートル大帝の孫のピョートル2世の3年の在位を経て、ロシアの帝位はピョートル大帝の直系である彼女を無視して、傍系のアンナ女帝、更には アンナの姪の息子である 僅か生後2ヶ月だったイワン6世へと移っていく。

エリザヴェータは、ピョートル大帝の娘として、ロシアの軍部には極めて人気が高かった。
自らを 父であるピョートル大帝の真の後継者であると主張し、今から3年前の1741年、クーデターを成功させて、エリザヴェータはロシアの帝位に就いた。
1744年現在、エリザヴェータ女帝は33歳。
18歳の頃に、ホルシュタイン=ゴットルプ家の公子カール・アウグストと婚約していたが、婚約中に彼が亡くなってしまって以来、独り身。
もちろん、だからといって彼女が清らかな日々を送っているわけではない。
スウェーデンのフィンランド侵攻が終わり、現在のロシアは建前上は 戦争というものには関わっておらず、内政・外政共、比較的 平和。
欧州で オーストリア継承戦争は続いていたが、それはロシア帝国とは直接 関わりのない、遠いところで行われている戦争にすぎない――。


「ま、そんなところだな。ロシアの現状は」
聖域のアテナが気に掛けるようなことは、現在のロシアには何もない――と、言葉にはせず、氷河が言う。
氷河の話を聞いた限りでは、瞬も その意見には同感だった。
そこに邪神の影があるというのなら ともかく、そうでないなら、現在のロシア宮廷は ありふれた宮廷――本当に ありふれた宮廷である。

「まさかアテナが、エリザヴェータ女帝の統治方法を 聖域統治の参考にしようと考えたわけでもないだろうし、アテナはいったい何のために――」
何のために、アテナは彼女の聖闘士を二人もロシアに派遣したのか。
アテナの目的を、理解することは愚か、察することさえできない自分に焦れて、瞬は そう言ったのだが、瞬のその言葉を聞くと、氷河は ふいに声をあげて笑い出した。
「アテナがエリザヴェータ女帝の統治方法を、自分の統治方法の参考にしようとしている? 幾人もの愛人情人を抱えて、愛人たちに やりたい放題をさせている、あのエリザヴェータ女帝の? 瞬、おまえ、実は冗談を言うのが好きだったのか? 愛人や情人を幾人も蓄えているアテナか。想像を絶するな」
「え……」

瞬は もちろん、冗談が好きなわけではなかった。
冗談が嫌いなわけでもないが、少なくとも 今 自分が冗談を言ったつもりはなく――瞬は、ただエリザヴェータ女帝が 彼女の宮廷をそういうものにしているということを知らなかっただけだった。
「エリザヴェータ女帝は、その……愛人を幾人も抱えて、その人たちに好き勝手をさせているの?」
「ああ。だが、その方がいい。文化芸術方面はともかく、政治面で彼女が自分で何事かを計画したり、政策を打ち出したりすると、ろくなことにならない。彼女の愛人たちの方が はるかに良識を備えている」
「そうなの?」
「ああ。女帝の愛人たちは、飛びぬけて政治的なセンスに恵まれているというわけではないが、有害というほど ひどい男たちでもないな。辺境の野蛮人の国という評価から脱却するために ピョートル大帝が始めた西欧化政策を受け継いで、無難に この国を治めている。エリザヴェータの治世に入ってから、この国は、法の力の及ぶ範囲が広がり、規律というものができてきている――と言っていい。法の締めつけが厳しくなったせいで、農奴の暮らしはきつくなっているだろうが、国の生産性は上がり、国力も増してきている。今、最も政治的な力を持っている女帝の愛人はベストゥージェフ・リューミンあたりだろう」

女帝の愛人の名を口にする氷河の声音には、あまり不快の響きはなかった。
それは、女帝が独身で夫を裏切っているわけではないからなのか、女帝自身が打ち出す政策が よほどの愚策ばかりだからなのか。
氷河の話し振りから察するに、おそらくは後者――と、瞬は思った。
「ろくなことにならないって、エリザヴェータ女帝は、これまでに どんな政策を打ち出したことがあるの?」
話の流れからして、極めて妥当かつ自然な質問――を、瞬は口にしたつもりだった。
そんな瞬に、氷河が、『それを訊くか』と言うような顔を向けてくる。
そうしてから氷河は、笑えばいいのか憤ればいいのかの判断をしかねている人間のような目をして、エリザヴェータの愚策を一つ、瞬に教示してくれたのだった。

「最悪なのは、服装チェックだな。女帝はピンクという色に こだわりがあって――好きなのか嫌いなのかはわからんのだが、彼女以外の女性がピンク色の服を着ることを禁じる勅令を出している。その勅令は、今も有効だ。上着だろうが、下着だろうが、アクセサリーだろうが、とにかくピンクはすべて禁止。長い人類の歴史上、どんな暴君も 一つの色を自分だけで独占しようなんて乱暴なことを考えた者は、ただの一人もいなかっただろう。考えた者くらいは、もしかしたらいたかもしれないが、法的効力のある勅令を出した馬鹿は いなかったはずだ」
「ええっ」

氷河の語るエリザヴェータ女帝の愚策を聞いて、瞬は まず、自分の耳を疑った。
次に、氷河が“冗談”を言っている可能性を考えた。
だが、氷河は 至って真顔。
真顔どころか、その表情には、どう見ても軽蔑の色としか思えないものを見え隠れさせている。
それは冗談ではないようだった。
しかし、それが冗談ではなく 事実なのだとしたら、エリザヴェータ女帝の出した勅令は、氷河の言う通り“ろくでもない”――“ろくでもない”を通り越して、常軌を逸した勅令である。
そんなことをして何になるのか。
瞬には、女帝の考えていることが全く理解できなかった。

「勅令に違反した場合の刑罰は、死刑ないし死刑に準じる刑罰ということになっていて、実際、四肢を切断されたり、シベリア流刑となった貴婦人が複数人いる。まあ、彼女等は、もともとイワン6世派で――いや、イワン6世派というより、幼帝の母アンナ・レオポルドヴナに近い立場にいた者たちで、アンナ・レオポルドヴナをリーガの要塞に幽閉したエリザヴェータ女帝への反発心を示そうとしただけだったんだろうな。まさか、ピンクのドレスを着たくらいのことで、本当に罰せられるとは考えてもいなかったんだろう」
「だ……だとしても、正気とは思えない……。男性はピンク色のものを身につけても構わないの?」
「ピンクを 最も女性の魅力を引き出す色だと信じている女帝が、自分が宮廷内で最も魅力的な女性でいるために そんな勅令を出したのだという説もあるから、男がピンクの服を身に着けるのは構わないのかもしれないが、男にも その勅令が適用されるのかどうかについては、女帝は言及していない。女帝に尋ねる度胸がある奴もいないようだし、もともと男はあまり用いない色だということもあって、男共もピンクは避けているようだな。女帝の勅令は、死の服装チェックと言われている」
「――」

あまりのことに、声も言葉も出てこない。
唖然呆然としている瞬に、氷河は同情の目を向けてきた。
「そういう ありさまだから――女帝に そんな馬鹿な勅令を出させないためにも、この国の宮廷は 幾人もの良識ある男を必要としているんだ。しかも、女帝は、それが若い美形でないと言うことを聞かん」
「それで、氷河が重宝されて、聖域に戻れないでいるの」
「大臣たちに、可能な限り ロシアに留まっていてくれとは言われているが、俺が聖域に帰れずにいるのは、アテナの帰還命令が出ないからだ」
それは そうだろう。
ロシアの女帝が 若い美形の言うことしか聞かないように、氷河が大人しく言うことを聞く相手も、ごく少数の人間に限られていた。

「聖域に帰りたい。アテナはよかった。居丈高だが、清廉潔白。もちろん、ピンク禁止なんて阿呆なことを言い出すこともしない。俺は、ここに来て、アテナの価値を再認識したぞ。聖域の連中に、アテナが どれほど素晴らしい暴君なのかを こんこんと説いてやりたいくらだ」
半年間の一人暮らしは、賑やかな集団生活に慣れていた氷河には かなりこたえたものらしい。
「本当に 俺を呼び戻しに来てくれたのではないのか?」
瞬に確認を入れてくる氷河の眼差しは 苦しげで、目の前に藁があったなら その藁にも すがりたいと思っている人間の それだった。
事実を告げることに、瞬が 胸に痛みを覚えるほど。

「アテナはそうは言っていなかった。氷河に会えないと寂しいでしょうって」
「アテナが、目的もなしに、ロシアくんだりまで 聖闘士を二人も派遣するとは思えないが」
「うん……。とにかく、女帝の宮廷の様子を探ってこいって」
「おまえの方が俺より はるかに注意深いから、俺が気付かないようなことに気付くことを期待してのことなのかもしれないな」
アテナが聖域に帰ってこいと言ってくれない限り、彼女の聖闘士は 聖域には戻れないのだ。
ならばアテナの望む成果をあげて、彼女から帰還命令を引き出すしかない。
聖域から遠く離れた この北の国。
だが、氷河は、そこで一人きりではなくなったことに力を得てくれたらしい。
彼は、そして、前向きになることを決意してくれたようだった。

「宮廷に行くしかないか。俺の婚約者ということでどうだ?」
「冗談。氷河の従弟とか、そんな役どころにしておいて。自分では気付かずに ピンクのものを身に着けてしまった時のためにも」
「ああ、その危険があったか。まあ、おまえなら、俺と違って、そこにいるだけで敵を作ることはないか」
「氷河、そこにいるだけで敵ができているの?」
「この美貌を妬まれてな」
冗談を、真顔で言えるくらいのところまでは立ち直ってくれたらしい氷河に、瞬は ほっと安堵の息を洩らしたのである。
安堵してから、それが冗談ではなく、単なる事実である可能性に思い至る。
それで、瞬は、少し心配顔になった。

「氷河、誰に対しても仏頂面でいるんでしょう? 僕が このお屋敷に到着した時にも、小間使いたちが 氷河が笑っているのを見て、びっくりしているみたいだった。氷河は、それでなくても面差しが端正すぎて、人に冷たい印象を与えがちなんだから、たまに周りの人に笑ってみせた方がいいんだよ」
「おまえがいないのに笑えるか」
氷河が むっとした顔になって そう言い、
「でも、今は僕が氷河の側にいるよ」
と、瞬が答えた時、ちょうど制限時間の1時間が経過したらしい。
ワゴンで お茶とお菓子を運んできた小間使いたちは、彼女等の主人の満面の笑みを見て、しばらく その場に棒立ちになっていた。






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