相手が大国ロシアの支配者だから、氷河も彼女にだけは愛想を振りまいていた――のだとは考えにくい。
にもかかわらず、ロシア到着の2日後には瞬の女帝への拝謁の希望が叶えられることになったということは、氷河は女帝に相当 気に入られているのだろう。
あるいは、女帝は 若い美形の言うことなら、それがどんなことでも 安易に願いを叶えてしまう君主なのか。
いずれにしても、瞬のロシア帝国の支配者エリザヴェータ・ペトローヴナとの拝謁の希望は、考えていたより はるかに容易に、そして 早く、叶うことになった。
拝謁当日、瞬は入念に身支度を整えて――ピンク色はもちろん、赤系の色を一切 排除した濃い緑色の宮廷服を身につけて、女帝の許に向かったのである。

フランス・ベルサイユの宮廷を模したというエリザヴェータ女帝の宮廷は、確かにロココの形をなぞった絢爛なものだった。
公用語はフランス語。宮殿も、そこに伺候している貴族たちの衣服もフランス風。
だが、どこかにロシアの素朴さ、力強さが感じられ、絶頂期を過ぎたフランスと、いよいよ国力を増しつつあるロシアとの違いが如実に感じられる。
瞬が女帝との対面を果たしたのは、仰々しい謁見のための部屋ではなく、女帝の私室。
エリザヴェータは少々 太り気味の、だが 十分に美しいと言っていい容貌の女性だった。
長椅子に 半ば もたれるように ゆったりと上体を預けている女帝のドレスは、金と銀、アクセサリーのほとんどはダイヤモンドと真珠。
瞬が見た限り、彼女だけが身につけることのできるピンク色は どこにもない。
そして、瞬は、彼女に愚鈍の印象を抱くこともなかった。

「俺の母方の親類です。ギリシャの田舎にこもっていたのですが、俺がこちらで陛下に知己を得たと聞いて、陛下の宮廷で洗練された宮廷作法を身につけることを希望し、この北の都にやってまいりました」
彼の常用語でも母国語でもないフランス語のせいか、氷河の言葉使いは 比較的丁寧なものだった。
ロシア宮廷の公用語がロシア語でないことは、氷河の不遜や無礼を覆い隠すのに役立っていたのかもしれない。
「瞬。陛下に ご挨拶を」
お声を待たずに発言をしていいのかと、瞬は それを案じたのだが、公式の謁見ではないためか、この場では それが許されるらしい。
瞬は、心もち 伏せていた顔を上げ、そして 初めて気付いた。
女帝が、遠来の客の顔を――むしろ姿を?――凝視して、そして、微妙に その眉と唇を歪めていることに。
その表情を どう言い表わせばいいのか――。
それは、実に奇妙なものを見てしまった人間の顔、この場にあるべきではないものを見てしまった人間の顔。
たとえて言うなら、シベリアの雪原を闊歩するアフリカ象を見てしまった人間なら、そんな顔をするのではないかと思えるような顔だった。
瞬が これまでに出会った誰とも違う表情、これまでに出会った誰とも違う反応。
瞬は、女帝の様子に、少なからず戸惑うことになったのである。

「陛下には、麗しき ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」
瞬が型通りの――女帝が言われ慣れているだろう挨拶を口にすると、女帝の奇妙な顔は 明確に不愉快でいる人間のそれに変わった。
「麗しい……麗しい? この私が?」
「え」
「そんな顔をして、よくも そんな白々しい言葉を吐けたものだ」
「そんな顔……とは……?」
反社的に反問してしまった瞬の腕を、氷河は無言で後ろに引いた。
『女帝より麗しい顔という意味だ』と、瞬にだけ聞こえる小声、聖闘士にだけ聞き取れるほどの早口で、氷河が瞬に告げる。
瞬は、自分は ちゃんと男子用の宮廷服を着てきたのにと、少々 落胆してしまったのである。
ここが女帝の前でなかったら、瞬は思い切り 拗ねてみせたかった。

「で、何のためにロシアへ」
女帝が不審なアフリカ象に尋ねてくる。
「宮廷の行儀作法を習いに」
瞬は、氷河が口にした説明を繰り返した。
その答えを聞いた女帝が、僅かに目を(すが)める。
「嘘は言うものではない。ロシアは北の辺境国、野蛮人の闊歩する国とでも思っているのであろう。そんな国の宮廷に行儀作法も何もあるものかと」
「そんなことはありません。陛下の父君ピョートル大帝の西欧化政策のために、ロシアは急速に発展、現在の陛下の宮廷は フランスの宮廷より洗練されていると言われています。そんな貴国に比して、ギリシャは のんびりした国で――今では あらゆる面でロシアに後れをとっています」

それは世辞でも追従(ついしょう)でもなく、単なる事実だった。
南欧の国の民は、ロシアほど気候が厳しくなく、遊惰が死に直結するようなことが少ないので、切実な発展志向、貪欲な上昇志向というものに欠けているのだ。
そこに、他国に――今はトルコに――付け入られている。
女帝も、それは承知しているはずだった。
「陛下は、文化事業に お力を注いでおいでとか。こちらに来る途中に、陛下が建てさせた夏の宮殿を見てまいりました。素晴らしかったです。サンクトペテルブルクの町を これほど美しい街にしたのは、陛下の ご尽力の賜物と聞いています。この美しい町は ロシアの永遠の財産となるでしょう。国内では大胆な節税対策・税制改革が採られ、あまり芳しい状態になかった国家財政を、陛下は見事に立て直された。国内産業の発展も目覚ましいものだとか。この町に来てから、氷河に 耳に蛸ができるくらい自慢されました」
「氷河が?」
「はい」

それは、明確な嘘だった。
エリザヴェータ女帝の政府の功績を、瞬は 昨日一日かけて、一人で頭の中に叩き込んだのだ。
もちろん、そのための資料は氷河に用意してもらったが、氷河は すべてを瞬自身に判断させるため、現在のロシア帝国政府の政治を褒めることも貶すこともしなかった。
そんなふうに、ほぼ先入観のない ほぼ白紙の状態で それらの資料に当たると、女帝の治世は そう悪いものではなかった。
瞬はそう判断した。
政治面での功績は、彼女の愛人や臣下たちの手柄なのかもしれなかったが、最終的に決断したのは女帝自身である。
建築・町作りは、政治にあまり興味がないらしい女帝が、ファッションと並んで、情熱を注いでいる分野で、現在のサンクトペテルブルクの美しい町を作ったのは、間違いなくエリザヴェータ女帝その人だった。

「税金を湯水のように使うのは嫌なのだけれど、この国を他の西洋諸国に侮られない国にするためには 多少の出費は やむを得ないのよ」
「町の都市化計画は 技術を発展させますし、民のための仕事も生みます。自分の周囲にばかり目を向けて 奢侈に走る王が多い中、陛下は巨視的な視点をお持ちです。フランスなど 長年の浪費が祟って、現在は財政破綻寸前のようですよ。現在のフランス宮廷は 虚飾に満ちた空虚な宮廷ですが、陛下の宮廷には 実があると お見受けしました。サンクトペテルブルクは、陛下がおいでの宮殿だけが美しいのではない」
「まあ、そうね。太陽王は経済観念がなかった。戦争で国庫を空にして、亡くなった。フランスと我が国では 領土の広さ、国力が違うわ」
「はい」

ほんの少し得意顔になった女帝に かしこまってみせながら、現在のロシアの支配者は想像していたより ずっと まともな女性だと、瞬は思ったのである。
この女性が本当に、ピンク禁止の勅令を出した人なのかと、瞬は疑いさえした。
瞬の女帝への称賛は、決して世辞ではなく、心からのものだった。
それがわかったのか、女帝も、それから しばらくは 和やかに瞬と言葉を交わしてくれたのである。
と言っても、多忙な支配者相手のこと、もちろん それは数分間だけのことだったが。
瞬が女帝の宮廷への出入りの許可を得て 女帝の前から辞去する際には、瞬に向けられる女帝の目は また不審な人間を見る者のそれに戻ってしまっていて、その訳がわからなかった瞬は、少々――否、かなり――居心地の悪さを味わいながら、女帝の私室を出ることになったのである。


「いくら若い美形でも、自分より可愛らしいオトコのコは駄目のようだな」
瞬の不安を払拭してやろうと考えたのだろう氷河が そう言ってくれたのだが、瞬は それだけでは完全には合点がいかなかった。
「僕、陛下のご機嫌を損ねたみたい。どうしてだろう。僕、何か失言した?」
人に好意を持たれることに、瞬は慣れていた。
瞬は 人に害意や敵意を抱くことが滅多になく(もちろん、アテナを害しようとする者、地上の平和を乱そうとする者は別であるが)、大抵の人間はそれを察知して、瞬に好意的な態度を示すのが常だった。
そういう状況に、瞬は慣れていたのだ。

「嫉妬だろう」
慣れぬ状況に気持ちが落ち着かずにいる瞬に、考えるまでもないことだと言わんばかりの口調で、氷河が言う。
そう言ってから、氷河は、しかし、すぐに考えを改めたようだった。
『これは、考えるまでもないことではない』と。
「おまえに嫉妬できるというのは、自分が宮廷の第一人者でいたい傲慢な君主ならではのことと言えるな。嫉妬というものは、対抗心が生むものだ。自分と相手の力は拮抗しているという錯覚、自分の方が優れているという慢心、そんな心が嫉妬を生む。そこいらにいる ただの小娘なら、圧倒的なレベルの差に打ちのめされ――いや、次元が違うことを素直に認め、おまえには敵わないと諦めて、妬心も抱けない。おまえに嫉妬できるというのは……まあ、女帝が それだけ大物だということの証左だな」
「だから、冗談はやめてって。どうして 女帝が、男の僕に嫉妬なんかするの」

アビ(膝丈の上着)と、ジレ(ウエストコート)とキュロットの3点セット――いわゆる、アビ・ア・ラ・フランセーズは、絶対に女性用ではない男性用の宮廷服である。
瞬は氷河を軽く睨んで、金色の廊下で(廊下といっても、ダンスパーティができるほどの幅や広さのあるホールなのだが)、自らが身に着けているものを確かめさせるために、氷河の前で くるりと全身を一回転させてみせた。
ちょうど 廊下の向こうからやってきた貴婦人が、瞬のその振舞いを見て、驚いたようにその場に立ち止まる。
「あ……すみません。僕、宮廷にあがるのが今日が初めてで、目に入るもの すべてが珍しくて、浮かれてしまって」
瞬が慌てて弁解し謝罪すると、30代半ばに見える その貴婦人は、
「まあ、なんて可愛らしい!」
と、はしゃいでいる幼い子供を愛でるような声をあげて、微笑んだ。

それは――それこそが、瞬が慣れている、瞬に対峙した人間の普通の反応だった。
男性女性の別を意識せず、可愛い子供に微笑まずにいられない大人の反応。
そういう反応を示す人がいるということは、ロシアの人間が他国の人間と異なる感覚を持っているわけではなく、やはり 女帝の反応が特殊だったのだ。
瞬には慣れ親しんだ反応を示してくれる貴婦人に会釈をして、瞬は氷河の隣りの場所に駆け戻った。
そして、呆れた顔の氷河に叱られる前に、彼の腕に両手を絡ませ、しがみついていく。

「そういえば、本当にピンクの服を着ている貴婦人が一人もいないね。今のご婦人のドレスも紺と金だった」
「あたりまえだ。誰だって、ピンクの服のせいで死刑になど なりたくはない。貴婦人方のピンク排除は徹底しているぞ。口紅も濃い赤やオレンジ。用心のために黒を混ぜている者も多いようだ。頬もピンク色に見えないよう、白粉を厚く塗りたくっている」
「あの白塗りはそのせいなの? なんだか気味が悪いくらい、ご婦人方の顔が真っ白で――。恋人と夜遊びしていることを自慢するために 不健康な病人みたいに見える化粧をするのがフランスで流行っているそうだから、その真似をしているのかと思っていたのに」
「とんでもない。あれは自分の命を守るための厚塗りだ。不気味なことは不気味だが、ご婦人方も必死なんだ」
「……」
女帝は、いったい なぜ そこまでピンクという色を排斥しようとするのか――。
「どうにかしたいね。できるものなら」
肩から力を抜いて そう呟き、瞬は長い吐息を洩らした。






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