「エリザヴェータ女帝に、ピンクへの懸念――むしろ、ピンクへの恐れというべきかしら。とにかく ピンクは危険な色なのだと思い込ませたのは、この私なのよ」
人の命と、もしかしたらロシアの政情にすら影響を与えかねない事態に際して、極めて 真剣かつ深刻に言い争っていた氷河と瞬に、アテナは あっけらかんと そう言ってくれた。
客間の暖炉には火が入れられ、その火は、それこそ 怒りに燃えて興奮している氷河に勝るとも劣らない激しい勢いで 燃えている。
客間の温度は、冬場の聖域のアテナ神殿 玉座の間の気温程度には上昇していた。

「アテナが、ピンクが危険な色だと 女帝に思い込ませた?」
「ええ。彼女は――父親はピョートル大帝、母親はエカテリーナ1世。成人した男子のいないロマノフ王家で、帝位に就いていないのが不思議なくらいの純血種よ。でも、彼女の両親が正式に結婚したのは、彼女が生まれてから3年後で、彼女は非嫡出子なの。今から3年前――彼女が、当時 僅か1歳だったイワン6世から帝位を奪い、クーデターで帝位に就いたことは知っているわね? そのクーデター計画が練られていた頃、ちょっとした事情があって、私は彼女に会っているのよ。ちょうど、イワン6世の母親にして摂政のアンナ・レオポルドヴナが、エリザヴェータを修道院送りにして帝位継承権を失わせようとしていた頃で――エリザヴェータは アンナの手を逃れるために トルコ領ギリシャに隠れていたことがあるの。ロシアを治めるのは、イワン6世かエリザヴェータか。興味があったから、私、こっそり彼女の見物に出掛けたのよね」
「見物……」

大国ロシアの政権がどう動くのか。
それは、原則的に俗世の権力には不干渉を貫くことになっているアテナと聖域であっても、無関心でいられることではない。
なにしろ今では人間は、へたな邪神などより強力な力を持つ大量破壊兵器を その手にしつつある。
それを興味本位で“見物”とは。
もちろんアテナのことであるから、“興味本位で見物”の根底には深い思慮があったに違いない。
だが、アテナのことであるから、本当に、純粋に、“興味本位で見物”しに行っただけだったのかもしれない。
彼女の聖闘士である自分自身のために、瞬は、アテナがエリザヴェータに会いに行った理由は前者であるに決まっていると、無理に自分に言いきかせた。

「彼女は恐れていたわ。欲心に まみれた大人たちに祭り上げられているだけの幼帝から帝位奪取することを。同時に彼女は、ピョートル大帝の娘として 軍隊の絶対的な支持を取りつけているとはいえ、自分が 正式な婚姻関係になかった両親から生まれたことに――つまり、彼女の神の祝福を受けた出生でないことに 引け目を感じていた。私は、そんな詰まらないことで諦められる帝位なら、さっさと諦めろと言ってやったのよ。自分の上に神の祝福がないことを恐れるなんて、馬鹿げている。ロシアの皇帝になったら、その人間は、神の教えに反することを 毎日しなければならなくなるのに、そんな弱腰でどうするの。ぐずぐず迷っている暇があったら、さっさと計画を実行に移せと」
「アテナ……」
俗世の権力への不干渉が、聖域の原則。
聖域が俗世に全く関わらないでいることは 厳密には不可能なこととはいえ、そして表だってはいないとはいえ、それは思い切り内政干渉――解しようによっては、実に無責任かつ大胆な内政干渉である。
あっけらかんとしたアテナの言葉に、瞬は 軽い頭痛を覚えることになった。

「形ばかりのイワン6世がロシアの帝位に就いているよりは、エリザヴェータの方が、ロシアの秩序回復と維持のため、世界の平和の維持のためによかったの。私には そう見えたわ。イワン6世の母親で摂政のアンナ・レオポルドヴナは、野心だけが大きい小物俗物で、今いち 私の好みじゃなかったし。エリザヴェータにも欠点は いくつもあったけど、アンナ・レオポルドヴナに比べれば かなりまし。だから、私は、彼女に決意を促すために言ってやったの。ピンク色があなたを滅ぼすだろう。それ以外のものは、あなたを傷付けることはできない。ピンクに気を付けなさい、ピンク色のものに注意してさえいれば、あなたのクーデターは成功し、あなたの帝位は いつまでも安泰だろう――って」
「ピンク……」
「人の決断と行動を妨げるものは、具体的な障害ではなく、漠然とした不安なのよ。目の前にあるものが具体的な脅威なら、それを排除すればいいだけのことですもの。あの時、エリザヴェータを動けなくしているのは、漠然とした不安だった。だから、私は彼女に 具体的な脅威を与えてやったの」
「……はあ」

俗世の権力への不干渉も何もあったものではない。
では、女帝は、ピンクという色を好きで 独占しようとしていたわけではなく、ピンクという色が嫌いで排斥とようとしていたわけでもなく――ただ恐れていたのだ。
ひたすら一途に、ピンクという色を恐れていた。
女神アテナの予言――アテナが エリザヴェータに『私は知恵と戦いの女神アテナである』と名乗りをあげたとは考えられないので、エリザヴェータにしてみれば、どこからともなく ふいに現れた不思議な少女の予言――のせいで。

「まあ、あなたには政治的な判断力と決断力が欠けているようだから、政治は適当に有能な家臣に任せて、あなた自身は 文化芸術方面の発展の方に努めた方がいいと、忠告はしたのだけど」
「……」
エリザヴェータ女帝が政治を愛人たちに任せているのは、もしかすると、彼女がアテナの忠告を()れたからなのだろうか。
確かにアテナの助言は的確だったろう。
エリザヴェータ女帝のロシアは、彼女の父ピョートル大帝の西欧化政策を推し進め、西洋列強の仲間入りを果たしつつある――否、既に その枢軸たる地位を勝ち得ている。
それも これも、エリザヴェータの愛人たちが、無駄に意欲的な改革派ではなく、堅実なタイプの男たちだったから。
エリザヴェータ当人が やる気いっぱいで先頭に立ち、ロシアの政治の舵取りをしていたら、今頃ロシアはとんでもない場所に辿り着いてしまっていたかもしれない。
しかし――。

「なぜピンクだったんです」
それが、瞬には わからなかった。
ピンクという色は、哲学、思想、政治等の分野で、特別な意味を持つ色ではない。
重要な概念を象徴する色でもなく、特定の国や団体のシンボルカラーとして用いられているという話も聞いたことはない。
いったい 沙織は なぜ、よりにもよって その色を選んだのか。
おかげで とんでもない災難に見舞われることになってしまった瞬としては、ぜひとも その理由を聞いておきたかった。
もっとも、その質問に対する沙織の返答を聞いた2秒後には、その理由を知りたいと思った自分自身を、瞬は海よりも深く後悔することになってしまったのだが。

「ああ、それはね、私が彼女に会う 少し前――今から4年前、1739年頃だったかしら。イランのアフシャール朝のナーディル・シャーがインドに侵攻して、デリーで大略奪を行なったのよ。その時、ナーディル・シャーは、ムガール朝の宝物庫から、ダルヤーイェ・ヌールという182カラットのピンクダイヤをイランに持っていってしまったの。私がエリザヴェータに会ったのは、ちょうど『そのダイヤ、ちょっと欲しいな〜』なんて思っていた時だったのよ。そのことが頭のどこかにあって、咄嗟に ピンクと言ってしまったの」
「……は?」
「だから、182カラットのピンクダイヤが欲しいな〜って」
「そ……そんなものを手に入れてどうするんです」
「どうもしないわ。そんなもの、何の役にも立たないもの。せいぜい聖域のアテナ像の兜か盾に嵌め込んでみるくらい?」
「そんなもの、何の役にも立たない――って……。ピンクの件は、本当に それだけの、深い意味も何もない、ただの思いつきだったんですか? それだけ?」
「ええ、それだけ」
「本当に本当に それだけ? アンドロメダの聖衣も小宇宙も関係なく――」

頼むから、ピンクという色を選んだことには 深い事情があったのだと言ってくれ――と、瞬が思ったとしても、それは不思議なことでも何でもないだろう。
人間は、往々にして、ある一つの出来事には意味のある理由や原因があってほしいと願うものなのだ。
自分が当事者である場合には、特に。
自分が、たまたま、偶然、何の意味もなく、その出来事に巻き込まれ、振り回されたのだとは思いたくないから。
しかし、現実は冷酷――否、アテナの答えは冷酷――だった。

「ほんとに ほんとに それだけ。エリザヴェータがクーデターを成功させ、まんまとロシアの皇帝位を手中に収めたことは もちろん知っていたし、その後の彼女が どんなことになっているのか、気になってはいたのだけど――。彼女がピンク禁止令を出したと聞いて、唖然としちゃったわ。エリザヴェータは、ピンクを女性の魅力を引き出す色と考えて、自分が手に入れた帝位を 魅力的な女性に奪われるのだと思い込んでしまったのね。それで、ピンクを禁じたところに、ピンクそのもののあなたが現われて、脅威に感じた。あなたが 自分の帝位を奪いに来たと思ったのか、あなたに命を奪われると思ったのか、そのあたりのことは エリザヴェータ当人に訊いてみなければわからないけど、彼女も愉快な勘違いをしてくれたものね」
「愉快な勘違い……ですか」
明るい笑顔で楽しそうに笑うアテナと一緒に 声をあげて笑うことができたなら どんなにいいか。
だが、残念ながら 今、瞬の心身には それだけの力がなかった。






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