「とにかく、ピンクの死の服装チェックなんて馬鹿な真似は やめさせた方が いいと思って、半年前、氷河をエリザヴェータの宮廷に派遣したのだけど、全く進展がない。これは、あなたが側にいないせいで 氷河が勤労意欲をなくしているからに違いないと考えて、あなたにもロシアに行ってもらうことにしたのよ。ピンクの第一人者の あなたなら、何かできるかもしれないと思ったし。それが こんなことになってしまって――」 「ちょっと、待ってくれ……!」 アテナの説明に 力を奪われてしまった瞬とアテナの間に、これ以上 黙ってアテナの説明を聞いていることに耐えられなくなったらしい氷河が 割り込んでくる。 彼の声は、おそらく 怒りを露わにするまいと思うあまり、僅かに震えを帯びていた。 「瞬が側にいないせいで、俺が 勤労意欲どころか 生きる気力まで失っていたのは事実だ。それは認める。だが、なら、なぜ 俺をロシアに派遣する時、俺が何のためにロシアに派遣されるのか、その訳を俺に具体的に指示してくれなかったんだ!」 「あら、だって……。具体的な指示など出さなくても、故国の宮廷の惨状を見たら、あなたは その状況を改善すべく すぐに何らかの行動に出てくれるだろうと、私は思っていたんですもの。あなたの故国への愛って、実は あまり大したことはなかったのね」 「これは 故国への愛がどうこうという問題じゃないだろう! アテナの聖闘士が一国の政治向きのことに安易に関わっていいのかどうかという問題が――いや、そんなことはどうでもいい。アテナの聖闘士が調査に派遣されたら、普通は邪神出現の気配を探るのが任務なのだと思うに決まっているじゃないか!」 「まあ、氷河。あなた、そんな勘違いをしていたの? なら、やっぱり、事前の事情説明は きちんとしておいた方がよかったわね」 「ぐ……っ」 半年――熱烈な恋をしている者にとって、恋人と共に在ることのできない半年という時間がどれほど つらく厳しいものなのか、アテナには わかっていない。 アテナの説明不足の出張命令に真面目に従い、孤独と煩悶の半年を耐えてきた氷河には、アテナの不手際に腹を立てる気力も残っていなかった。 燃え尽きて真っ白な灰になってしまった氷河の代わりに、瞬がアテナの軽率を責める。 「アテナに植えつけられたピンクへの思い込みのせいで 処刑された貴婦人もいるんですよ! 僕は、軽率に そんなことをするアテナが恐いです」 「ピンク問題がなくても、エリザヴェータは 自分の勅命に従わない者たちを 早晩 粛清していたと思うわよ。それに、あの時は――彼女に決断を促すことが必要だったのよ。あのままでは、ロシアは、イワン6世派とエリザヴェータ派に国が二分され、十中八九 内乱に突入していたわ。そうなれば、何万、何十万という犠牲者が出ていたかもしれない」 「そ……それは そうかもしれませんが……」 そう言われると、瞬にも 重ねてアテナを責める言葉は思いつけなかった。 これは決して 失われる命の数の問題ではないと思いはするのだが、それでも。 反駁の言葉を失い 黙り込んでしまった瞬を見て、アテナが少し――ほんの少しだけ真面目な顔になる。 「エリザヴェータが、あなたを差し出せと言ってきたんしょう? こうなると、さすがに放ってはおけないから、私が直接 けりをつけに来たというわけ」 「けりをつける? どうやって、けりをつけるんだ」 疲れた声で、氷河が尋ねる。 アテナは、そんな氷河とは対照的に、どこまでも明るく元気だった。 「あ、けりのつけ方に関しては、私が台本を書いてきたわ。自分の蒔いた種は自分で刈り取ります。私は責任感の強い女神ですもの」 「台本?」 「ええ、これ」 あろうことか、アテナは本当に 台本を書いて持ってきていた。 台本といっても、それは 僅か数ページのプロットレベルのものだったが。 アテナ直筆台本のタイトルは、『ピンクの衝撃〜ロシア宮廷 危機一髪』。 そのタイトルを見ただけで、氷河と瞬は 嫌な予感に襲われてしまったのである。 途轍もなく 不吉で嫌な予感に。 「僕、そんなもの、読みたくありません」 瞬に拒絶の即答をさせたものは、幾多の命がけの戦いを戦い 生き延びてきた戦士の勘だったろう。 「俺も同じく」 もちろん、氷河も瞬と同じ勘を持ち合わせていた。 それは、己れの心身の保全を図ろうとする人間の当然の対応だったのだが、同時に それはまた、アテナの命令には絶対服従のアテナの聖闘士である氷河と瞬の、精一杯の抵抗でもあったろう。 無論、アテナは二人の敵前逃亡を許さなかったが。 「ピンクの衝撃の顛末を見届ける証人は、なるべく多い方がいいわ。明日、エリザヴェータの宮殿で月例の閲兵式があるはずよ。上演は、その最中がいいと思うの。大勢の観客のいる中に 華々しくピンクの衝撃が走って、上演開始」 「そのピンクの衝撃って、何ですか」 「もちろん、ピンクの聖衣をまとった あなたよ」 「嫌です!」 戦士の勘に従って、今度も瞬は即答したのだが、アテナは華麗に聞こえない振りをしてくれた。 「ストーリーは至って単純よ。まず、アンドロメダの聖衣着用のあなたが、ネビュラチェーンでエリザヴェータに攻撃を仕掛ける。それを氷河が凍気で防ぐ。ここは、適当に、迫力あるバトルを演じてちょうだい。最終的に、瞬は、氷河との戦いで力尽きた振りをして消える。これは、普通に逃げるだけでいいわ。あなたが光速で移動すれば、普通の人間の目には その存在が消滅したように見えるでしょうから。つまり、女帝と大勢の観客に、ピンクの脅威は消えたと思わせることができるわけ。瞬の退場後は、氷河が、女帝をピンクの危機から救うために来ていた神の使いだと自己紹介。女帝を脅かす危機を消滅させることができたので、自分は天に帰るといって、同じく消える。あとに残るのは、ピンクの脅威が消滅し、自身の地位は盤石と信じる女帝と その家臣と兵士たち。どう?」 『どう?』とは、どういう意味なのか。 アテナは、自分が書いた台本の出来についての評価を求めているのだろうか。 もし ここで、『駄作の部類ですね』と忌憚のない感想を正直に言えば、アテナは その上演を思いとどまってくれるのだろうか。 もし そうなら、瞬は、たとえアテナの機嫌を損ねることになっても、忌憚のない感想を彼女に伝えていただろう。 自分の台本が 誰にどれほど酷評されても、アテナが その上演を中止することはないだろうことが わかっているから、瞬は彼女に沈黙の答えを返すことしかできなかったのである。 だが、氷河は、唯々諾々とアテナの命令に従うことは、どうしてもできなかったらしい。 彼は、人間の身で 畏れ多くも知恵と戦いの女神に噛みついていった。 「なにが、女帝をピンクの危機から救うために来ていた神の使いだ! 世界の平和と安寧を守るために戦うことを生業としているアテナの聖闘士に、そんな茶番を演じろというのか! いや、この俺に瞬を攻撃しろというのか!」 氷河にしてみれば、それは 当然の異議・反駁。そして、当然の抵抗だった。 アテナの聖闘士は、地上の平和と安寧を守り戦う者。 そして、アテナの聖闘士が なぜ地上の平和と安寧を守るために戦うのかといえば、そこが 愛する人、守りたい人が生きている世界だからなのである。 だというのに、アテナは、氷河に、彼の愛する人、守りたい人を攻撃しろと言っているのだ。 そんな命令など、いくら アテナの命令でも きけるものではない。 が、アテナは、彼女の聖闘士の 至極当然かつ切なる願いを、あっさり切って捨ててくれた。 否、逆に 氷河を脅してきた。 「でも、その茶番を見事に やり遂げれば、あなたは、瞬と二人で聖域に帰ることができるのよ? 邪神の脅威がない平時には、聖域で朝から晩まで瞬といちゃつき放題。でも、ピンクの脅威に決着がつかなければ、私は、あなたに聖域帰還命令を出すことができないわ。女帝のピンク問題は、私に責任のあることなんですもの」 「う……」 『“私”に責任のあることなら、“私”が自分でどうにかすれば いいではないか』と言えるものなら、どんなに楽か。 だが、アテナの聖闘士は、いつ いかなる時も 楽な道に逃げることは許されていないのだ。 結局、氷河は折れるしかなかった。 折れて、負けて、自棄になり、半ば開き直って――翌日、ロシア帝国 月例閲兵式の場で、氷河は、大真面目に茶番を演じ、アテナの命令を これ以上ないほど鮮やかに、華麗に、完璧に、遂行してのけた。 そして、彼は、めでたく 念願の聖域帰還命令を手に入れたのである。 アテナの脅迫に屈するのは つらく屈辱的なことだったが、瞬のためにプライドを捨てたのだと考えれば、少しは 心も慰められる。 どうこう言って、“邪神の脅威がない平時には、聖域で朝から晩まで瞬といちゃつき放題”は、氷河にとっては、自らのプライドを捨てるに値する素晴らしい報酬だったのだ。 ボディガードの名目でロシアまで連れてこられた星矢と紫龍が、『ピンクの衝撃〜ロシア宮廷 危機一髪』の上演中、アテナに渡された買い物リストを片手に、ロモノーソフやグジェリの陶器、ミハイロフレースやリャザン刺繍のドレスやプラトークを入手するために、サンクトペテルブルクの町を走り回っていたという話を聞いて、自分に課せられた仕事に文句を言うばかりではいけないと思うことができるようになったのも大きかったかもしれない。 白鳥座の聖闘士がプライドを捨てた甲斐はあった――と言えるだろう。 『ピンクの衝撃〜ロシア宮廷 危機一髪』上演の1週間後、氷河は瞬と共に、サンクトペテルブルクの冬に比べれば 春と言っていいような地中海性気候の聖域で、朝から晩まで 好きなだけ瞬といちゃついていられる状況を、自分のものにしていたのだから。 |