L'Innocent

-罪なき者-







『地上で最も清らか』
誰が最初に 瞬を そう評したのか、それは今となっては誰にもわからない。
その誰かが神だというなら話は別だが、そうでないのなら、もちろん それは根拠のない憶測にすぎず、神ならぬ身の人間には、瞬を“地上で最も清らか”な人間だと断じることはできない。
無論、神ならぬ身の人間には、絶対にそうではないと断じることもできないのだが。
しかし、この際 問題なのは、それが誰であるにせよ、誰かが瞬を そう評し、周囲の皆が その見解に賛同した――少なくとも、誰も異を唱えることはしなかった――ということ。
多くの人間が、その見解を、事実 もしくは事実に近い推察だと認めたことなのである。

瞬は その心根だけでなく、姿もまた 極めて清らかだった。
いったい この世に悪意というものが存在することを知っているのだろうかと疑いたくなるような澄んだ瞳を、瞬は持っている。
争いごとが嫌いで、人との間に対立を生んだことがなく、人と いさかいを起こしたこともない。
瞬は基本的に 誰に対しても従順で、他者に対して 強硬に反対意見を述べるようなことは滅多にしなかった。
それでいて、一本 芯の通ったところがあり、自分が正しいと信じることは決して曲げない。
その芯の通し方は、極めて やわらか。
対峙する相手の意見を否定することは決してせず、だが、自分の意見は しっかりと主張する。
『力こそ正義』と言い張る人間がいれば、瞬は、そう主張する人間に対して 深く頷き、
「優しさほど強い力はないですよね」
と答える。
万事が そんな調子だった。

人を疑うことをせず、もし誰かに騙され、裏切られ、傷付けられることがあっても、その人には そうしなければならない正当な理由、もしくは やむを得ない事情があったのだろうと、瞬は考える。
だから、人を恨んだり憎んだりすることがなく、その言動は常に善意と好意でできている。
普通の人間が見れば、それは 一人の人間として 何か重要な要素が欠落しているのではないかと思えるほど――瞬は、いわゆる 負の感情、マイナス方向への考え方を持たない人間だった。
だが、瞬に何らかの欠落を感じるような人間も、実際に瞬に接することがあれば、結局は 瞬に好意を抱くのだ。
自分に敵意や害意や悪意を抱いていない人間を嫌うという行為は、人間には なかなかに難しいことなのである。
普通の人間の中では、自分に善意で接してくれる人間を嫌うことは損だという計算が働くから。
そして 人は、善良な人間を嫌うことに罪悪感を覚える生き物だから。

とはいえ、もちろん 世の中には そうではない人間もいる。
たとえば、そうすることが自分の損になるとわかっていても、優しい人間の厚意を受け入れることのできない人間。
たとえば、善良な人間を裏切ることで、間違った快感を得る人間。
たとえば、人間の持つ優しさや善意そのものを信じることのできない人間。
不幸にして、そういう 捻くれた心理や価値観を 自身の中に育んでしまった哀れな人間は、確かに この世には一定数 存在する。

であるから、瞬の兄・一輝が、瞬の高校進学に際して、
「もし おまえに付き合いたい相手ができたなら、実際に 付き合いを始める前に、必ず兄に会わせろ」
と瞬に厳命したのは、決して ゆえなきことではなかっただろう。
「おまえには人を見る目がない。どんな人間をも いい人だと思い込み、すぐに信用してしまう。人を信じることが悪いことだとは言わないが、それで騙され、裏切られて、悲しむ おまえを見るのは、俺は兄として忍びない。だから、その相手の 人となりを見定めて、その人間が おまえと付き合うに値する人間性の持ち主かどうかということを、この兄が判断する。兄が面接し、兄に よしと認めた場合にのみ、おまえが その相手と正式な 付き合いを始めることを許そう」
一輝の その言葉は、決して 突飛なことでもなければ、古い家父長制にのっとった年長者の横暴でもなかったのだ。
清らかで 人を疑うことを知らず、誰に対しても従順な弟を持ってしまった兄としては、それは当然の配慮にして用心。
まして、瞬と一輝は、両親を早くに亡くし、この世にたった二人きりの兄弟なのである。
兄が、弟を不幸にするかもしれない人間を弟から遠ざけたいと思うのは、ごく普通の肉親の情。
少なくとも、一輝自身は そう思っていた。

ここで、
『高校生に、正式な お付き合いも何もないでしょう』
だの、
『別に結婚するわけでもないんだし、今時、お付き合いするのに 父兄の許可が必要だなんて』
だの、
『兄さんは、僕の判断を信じてくれないんですか』
だの、
『僕は もう大人なんだから、子供扱いはやめて』
だのという、反抗期の子供のようなことを言ったり 考えたりせず、
「僕が親交を深めたいと思っている人と 兄さんが お近づきになってくれるのは、僕も嬉しいです」
と 笑顔で頷くところが、瞬の瞬たる ゆえん。
すべては兄が弟を深く愛してくれているから、これは兄の愛情の発露なのだと考えるのが、瞬という人間、瞬という弟だった。






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