「デストール。貴様を男と見込んで頼みがある」 城戸邸の庭で、石のベンチに絵の具や絵皿を並べて 骨壺に絵入れをしているデストールに頼みごとをしている兄の姿を瞬が見たのは、長かった冬が終わりかけた桃の節句の頃。 城戸邸の客間の一つに、名匠の手に成る豪華七段飾り十二単衣装着用十五人揃えの雛人形が 美々しく飾られている頃だった。 決して盗み聞くつもりはなかったのだが、瞬は つい その場に立ち止まり、そして、つい 楡の木の陰に身を隠してしまったのである。 一緒にいた氷河が、瞬の盗み聞きをやめさせるどころか、瞬に倣って同じ木の陰に身を潜ませたところを見ると、氷河もその二人の関係には 並々ならぬ関心を抱いていたに違いない。 それは非常に珍しいことだった。 なにしろ氷河は、他人に関心を抱くことが滅多になく――それが たとえ自分の命を奪おうとしている敵であっても、興味を持てない相手は 完全完璧に無視してのける男だったから。 一輝の声が聞こえていないはずがないのに、デストールは聞こえぬ振りをして、白い肌の壺に絵を入れている。 赤い染料でデストールが壺に描いているのは、てっきり花の模様なのだと瞬は思っていたのだが、どうやら そうではないようだった。 目を凝らしてみると、それは蟹の絵で、それも写実系ではなく、かなりデフォルメされた10代の女の子が喜びそうなポップな絵柄。 そんなところからしても、瞬はデストールという人間が よくわからなかったのである。 「デストール。貴様、聞こえていないのか」 一輝の声が、少し苛立ちの響きを帯びる。 デストールは、鳳凰座の聖闘士の不機嫌など恐くも何ともないらしく、顔も上げずに、 「それが人に物を頼む人間の態度かい」 と、壺に描かれた可愛い赤い蟹に向かって、一輝の態度を非難した。 一輝は一瞬 むっとしたように唇を引き結び、だが、すぐに、 「デストール。貴様を黄金聖闘士唯一の美形と見込んで頼みがある」 と言葉を変えて、庭の木の陰に隠れている彼の弟を驚かせてくれたのだった。 とはいえ、瞬は、兄がデストールを美形と評したことに驚いたわけではない。 そうではなく――その態度と言葉使いを人に注意された兄が、素直な小学生のように その注意を受け入れ 自らの態度を改めたことにこそ、瞬は驚いたのだ。 そんなことは、かつて一度もなかったこと――少なくとも瞬の記憶には刻まれていないことだったから。 「そうそう。人に物を頼む時には、そういうふうに謙虚かつ正直に振舞うもんだよ。もちろん、手土産の一つくらいは持参しているんだろうね」 鳳凰座の聖闘士の素直な態度に出会い、デストールは彼の相手をしてやる気になったらしい。 彼はやっと、その視線を 壺の上から鳳凰座の聖闘士の方へと移動させた。 「ああ」 デストールに頷く一輝の手には、薄桃色の紙製の手提げ袋が握られている。 それを認めて、デストールは顎を引くように頷き、手にしていた絵筆をベンチの上に置いた。 「で、あんたの頼みってのは何よ」 「俺の弟に、貴様の“男を見る目”を伝授してやってほしい」 その気になってくれたデストールの気持ちが変わらないうちにと考えたのか、鳳凰座の聖闘士が間髪を入れずに彼の“頼み”を口にする。 デストールは、一輝の頼みの内容とは違うことに、まず驚いてみせた。 「あんたの弟? あんたに弟なんかいたの?」 「何を言っている。貴様は 会ったことがあるはずだぞ。貴様の時代の巨蟹宮を通ろうとして、一悶着あったと聞いている」 「あんたの弟ってのは、あの小憎らしい天馬座のテンマだかトンマだかチンケだかいうガキのことかい」 「それと一緒にいた、もう一人の方だ」 「えっ !? トンマと一緒にいた もう一人の方って、あの時、天馬座のガキと一緒にいたのは――」 「知っているだろう。アンドロメダ座の聖闘士、アンドロメダ瞬。ピンクの聖衣の」 「えええええーっ !? あああああれがあんたの弟ぉ〜っ !?」 この城戸邸でも 既に何度か顔を会わせていたのに、デストールは そのことを知らずにいたらしい。 デストールの巣頓狂な驚きの声を聞いて、自分がデストールに その存在をほぼ無視されていたことに、瞬は初めて気付いたのだった。 もちろんアテナの聖闘士の最高位にある黄金聖闘士が 一介の青銅聖闘士の存在を いちいち気に留める必要はない。 彼には、そんな義理も義務もない。 兄ほど存在感のある聖闘士なら また話は別だろうが――と考えて、瞬は特段 卑屈な気持ちにはならなかった。 自分は取るに足りない小さな存在なのだからと、瞬は素直に思ったのである。 もっとも、デストールが瞬を眼中に入れていなかったのは、 「てっきり女の子なんだと思って、ろくに顔も見てなかったわ」 ということのようだったが。 「まあ、他ならぬ あんたの頼みなら、聞いてやらないこともないけど……」 そう言って、デストールが、一輝の手にしている紙袋に ちらりと視線を落とす。 特段 勿体ぶるつもりもなかったらしく、一輝は それを押しつけるようにして デストールに手渡した。 「それが21世紀のネイルケア一式だ。よく わからんのだが、ヤスリにオイル、クリーム、マニキュア、リムーバー、ネイルチップ、ストーン、シール、ビーズ――そういうのが、一揃い入っているそうだ」 まさか兄が自ら見繕ってきたのではないだろう。 しかし、兄が その手のものが売られている場所に行き、その店の販売員に『適当に見繕ってくれ』くらいのことを言ったのは事実なのだろう。 そんなことを頼める婦女子の友人が兄にいるとは、瞬には思えなかった。 鳳凰座の聖闘士から手渡された手提げ袋の中を覗き込んで、デストールは その品物に満足したらしい。 ベンチに腰掛けたまま、彼は鳳凰座の聖闘士の顔を見上げ、尋ねた。 「オッケー。で、あんたの弟には、そんなに男を見る目がないのかい」 「ない。全くない」 一瞬の逡巡もなく、一輝が即答かつ断言する。 全く躊躇のない、自信に満ちた兄の即答に、瞬は 傷付く時間さえ持てなかったのである。 兄の情け容赦のなさに比べたら、デストールの方が まだ優しく思えるほどだった。 デストールは、兄の即断に、 「でも、あの子は まだ 子供だったし、仕方がないところもあるんじゃないのかい」 と言ってくれたのだ。 一輝が、そんなデストールの前で肩をすくめ、首を横に振る。 「瞬は、男を見る目がないというより、人を見る目がないんだ」 「あら、そうなの? このあたしを黄金聖闘士唯一の美形と看破した あんたの弟なら、それなりの眼力は持っていそうなものなのに」 「……」 瞬時 何か言いたそうな顔になった一輝が、しかし そのまま口をつぐむ。 おそらく 言おうとした言葉を喉の奥に押しやって――やがて 気を取り直したように、一輝は再び口を開いた。 「瞬は、人を疑うことを知らない子で――いや……人を疑うことは知っている。そういう行為があることは知っているんだろう。知っているのに、悪心だけの人間はいないと信じていて、とにかく まず人を信じる。意識して信じようとしているのか、本当に心から信じているのかは、兄の俺にも量りかねることがあるんだが、とにかく 瞬は、人には誰にでも いいところがあると信じているから、まず他者に対して好意と信頼を抱くんだ」 「おめでたい子だわね」 デストールの端的なコメントを、一輝は否定しなかった。 特に肯定もしなかったが。 ただ、デストールの そのコメントを聞いた一輝が、その表情と声に 苦渋の色と響きを増したことだけは事実だった。 「悪心だけの人間は存在しない――それは事実なのかもしれん。しかし、良心より悪心の方が勝っている人間が この世に多く存在しているのは紛う方なき事実だろう。人を信じては裏切られ、裏切られても信じ続け、それで傷付き、損をして、それでも瞬は人を信じることをやめない。それは瞬の強さだ。俺とて、そんな弟を誇りに思わないわけではない。だが、ここにきて、そうとばかりも言っていられない事態が勃発した。瞬の兄として捨て置けない事態だ」 「何よ。その捨て置けない事態ってのは」 「白鳥座の聖闘士――キグナス氷河という大馬鹿野郎が、人を信じる瞬の心を利用し、騙し、瞬によからぬことをしようとしているんだ。俺は氷河が いかに最低な ろくでなしなのかを、口を酸っぱくして説明し、何度も あんな阿呆と付き合うのはやめろと言ってやったんだが、男を見る目のない瞬は 俺の言うことを信じないんだ。氷河は氷河で、瞬の前では 小ずるく 猫をかぶっていて、なかなか ぼろを出さない。氷河は、実際には邪心と助平心しか持たない品性下劣な男なのに、それを誠意や愛に見せかけるのが上手いんだ。俺は瞬に奴の真実の姿を見せてやりたい――知ってほしい。俺は、瞬が あんな卑劣下品な男と付き合い 振りまわされている様を見ていると、心配でならないんだ。氷河の化けの皮は いずれ剥がれるだろう。瞬は最後には、自分が氷河に騙されていたことを知り、傷付くことになるに決まっている。俺は その時に瞬が負う心の傷を なるべく浅いものにするために、少しでも早く瞬に 男を見る目を養ってほしいんだ……!」 一輝は、それを、懸念や不安、根拠のない憶測の類とは思っていないようだった。 それが、遅かれ早かれ いつかは必ず訪れる確実な未来だと、彼は信じているらしい。 すなわち、男を見る目のない彼の弟が 大した価値のない男に騙されている現在と、やがて白日のもとに さらされる真実のせいで彼の弟が傷付く未来の訪れを。 氷河にしてみれば、それは懸念でも 不安でも 確実に訪れる未来でもなく、ただの願望――瞬の兄は、白鳥座の聖闘士が ろくでもない男であってほしいと願っているにすぎないと 思わずにいられなかったが。 だから瞬が白鳥座の聖闘士と親しくしていることはよくないこと、間違っていることだと、一輝は信じたいだけなのだ。 そして、二人の仲を裂くことには正当な理由があると思いたいだけ。 一輝の懸念は、氷河にしてみれば、理不尽もいいところの身勝手な決めつけだった。 |