「一輝の野郎ーっ!」
黙って聞いていられなくなった氷河が 身をひそませていた木の陰から飛び出そうとするのを止めたのは、理不尽で身勝手な男に 理不尽で身勝手な愛情を一身に注がれている鳳凰座の聖闘士の弟だった。
「氷河、行かないで。お願いだから、ここにいて。兄さんは――」
「止めるなっ。いくら おまえの兄でも、許せることと許せないこと、我慢できることと我慢できないことがある。男を見る目がないのは どっちだ! 奴は、おまえと親しくなる奴は、俺に限らず 誰でも彼でも気に入らないんだ! そして、先入観で悪党と決めつけて、おまえに近付けまいとする。たとえ実の兄でも、そんなことをする権利は 奴にはないぞ!」

氷河の怒りは至極尤も。
もし彼が本当に ろくでもない悪党だったとしても、彼は瞬の仲間として、一輝を責める権利を有していただろう。
デストールに対する一輝の頼みごとは、つまり 一輝が瞬の判断を――氷河にとっては、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間の判断を――信じられないと言っているも同然のことだったのだから。
一輝の頼みごとは、むしろ瞬が立腹すべきこと――氷河よりも瞬こそが兄を責めて しかるべきことだったのだ。
瞬には、兄を責めるつもりは全くないようだったが。
そして、瞬が氷河を引きとめたのは、兄の頼みごとを正当なものと思っているからではなく、兄を責めたくないからでもなく、全く別の理由によるもののようだった。

「兄さんが、人に ものを頼むなんて……。しかも、あんなふうに、求められるままの台辞を口にして、お土産持参で、頭を下げて……」
「そうまでして人に頼むようなことか? 男を見る目を伝授してくれ? 他人の男を見る目を心配している暇があったら、その時間を利用して、まず一輝自身が それを養うべきだろう。瞬、おまえは、そんなもの 伝授されなくていいからな!」
「……」
氷河は、彼自身の怒りの対応に手一杯で、瞬がなぜ白鳥座の聖闘士を止めたのか、その訳にまで気がまわっていなかった。
黙り込んでしまった瞬の前で、少し気まずげに言い訳を口にする。

「俺は、別に、自分に自信がなくて、そんなことを言っているわけではないぞ」
「そういうことじゃなく……兄さんが あんなふうに笑ったり、人の注意に従ったり――兄さんがあんなふうにしているのを、僕、初めて見たから……」
「あ? ああ、そういえば、確かに まるで一輝らしくないことだな。いつものかっこつけもない」
瞬が今日初めて見たものは、氷河もまた 今日初めて見たものだった。
氷河の見知っている一輝は、相手が誰であっても 決して へりくだることがなく、常に他者より一段高いところにいるスタイルを崩すことのない男だった。
それこそ、頼みごとをさえ、命令口調で言うような。
その一輝が、今日は 手土産持参で、しかも相手を持ち上げるようなセリフを口にし、相手の図々しさや高飛車に立腹した様子も見せない。
確かに今日、一輝は いつもの一輝ではなかった。
もしかしたら、対峙している相手がデストールだから。

瞬が今 見詰めている相手は、瞬の兄に ろくでもない男と決めつけられた白鳥座の聖闘士ではなかった。
白鳥座の聖闘士を ろくでもない男と決めつけた瞬の兄でもなく――瞬の兄が世辞付き手土産持参で頼みごとを頼んだ相手。
二百数十年前の蟹座の黄金聖闘士に どこか思い詰めたような眼差しを注いでいる瞬の様子に、氷河は嫌な予感を覚えたのである。
案の定、瞬は、
「僕、デストールさんと お近付きになりたい」
と、とんでもないことを言い出した。

「瞬! 急に何を言い出したんだ! あの男は二百数十年前の巨蟹宮で、おまえを倒そうとした男だろう!」
「うん。でも、兄さんに あんなふうに親しげに接して――兄さんをあんなふうに変えることができるなんて――デストールさんって、きっと とっても美しい心の持ち主で、他の人とは違う何かを持った人なんだと思うんだ」
「そんなわけがあるか! 美しい心を持った人間が、空世辞を求めたり、友だちの頼みごとをきくのに代償を求めたりするか !? あの二人が友人同士なのかどうかは知らんが、あのデストールという男は どう見ても、友情や人道より 自分の損得を優先させている男だ!」
「だとしても――だとしても、僕はデストールさんとお近付きになりたい……」
「……」

瞬の望みは どんなことでも叶えてやりたい。
それこそが、氷河の何よりも重要重大な望みだった。
しかし、その願いは――。
氷河としても、非常に複雑だったのである。
これが若い美形なら妬く気にもなるが、相手は、不細工な年齢不詳の(多分)おっさん。
妬心を抱くことは難しい人物である。
そして、彼が瞬に良い影響を与えるとは思えない。
だが、瞬の願いは叶えてやりたい――。

悩みに悩んで、やはり瞬とデストールが親しくなるのは望ましいことではないという結論に至った氷河は、だが 結局、瞬の一途に思い詰めた眼差しに負けてしまったのだった。






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