「兄から、人生の先輩であるデストールさんに、人を見る目を養う方法を教えてもらうように言われてきました。ご教示、よろしく お願いいたします」 翌日 瞬は、火の入った陶磁窯の前で 鼻歌を歌いながらヤスリで爪の形を整えているデストールの前に赴き、深々と頭を下げた。 「ああ、来たわね、アンドロメダ。まさか あんたが一輝の弟だったなんて、一輝に教えられるまで考えたこともなかったし、そう教えてもらった今でも 到底 信じられ――」 デストールは もしかしたら、その時 初めて まともに瞬の顔を見たのだったかもしれない。 それまでデストールにとって、瞬は、“男を見る目”を発動させる価値もない存在だったのかもしれない。 おそらく初めて 正面から まともに瞬の顔を見て、言葉を途切らせ、デストールは一瞬 呆けた顔になった。 「デストールさん……? どうかなさったんですか? 僕、何か失礼なことを――」 「な……何よ、その目は!」 「は?」 ここは やはり手土産を持参するのが礼儀だったのだろうかと戸惑っていた瞬は、デストールの非難が手土産とは全く別の事柄に向けられていることを知らされ、更に困惑を大きくすることになった。 「目……? 僕の目がどうか?」 “人を見る目”がないからデストールに教えを乞いに行けと兄に命じられ、瞬はここに来た。 当然、自分の目には何らかの問題が――自分では気付いていない、何らかの問題が――あるのだろうと、半信半疑ながら瞬は思っていた。 しかし、それは、鳳凰座の聖闘士の頼みを引き受けた時点で、デストールには既知のこと。 それは、彼にとって改めて驚くようなことではないはずである。 にもかかわらず、デストールの この大袈裟な驚きよう――むしろ、憤りよう。 瞬は、蟹座の黄金聖闘士の前で 首をかしげることになった。 そんな瞬に、デストールが彼の怒りの訳を伝えてくる。 「その、この世に悪人はいないって信じきってるような あんたの目が気に入らないって言ってるのよ!」 「え? あ……でも、少なくとも今、僕の目の前には、そんな人はいません」 「今 あんたの目の前に そんな人はいない――って、あんた、ほんとに 人を見る目がないのねえ」 「……」 それは いったい どういう意味なのか。 今 アンドロメダ座の聖闘士の前に悪人がいると、デストールは言うのか――つまり、彼自身が悪人だと? 瞬には、デストールの発言の真意がわからなかった。 そもそも 悪人というものは、自分を悪人だと他者に自己申告をしたりはしないだろう。 もし したとしたら、それは他者に対する親切な忠告で、善意から出る行為である。 人に善意で接する人を、普通は“悪人”とは言わない。 それが、瞬の考えだった。 では、デストールは わざと悪人を装う偽悪者なのか。 だが、人が そんなことをして、どんな得があるだろう? 瞬には、本当にデストールの言動の意図がわからなかったのである。 「そんなことは……あの、でも、兄はそう言うんです。僕には、人を見る目がないって。いえ、ないんじゃなくて、間違っているって。兄さんは そう言う。僕は人を簡単に信じすぎるって」 「あたしも、そう聞いてるわ。で、あんた、あたしのこと、どう思ってるの」 「それは もちろん、兄さんが信じている人なんですから、気高く美しい心を持った方なのだと――」 「一輝が あたしを信じてるとは限らないけど」 「信じています。僕にはわかる。兄さんは、デストールさんをいい人だと信じています。でなかったら、僕に 人を見る目を伝授してくれなんて、デストールさんに頼むはずがない。むしろ、僕に近付けまいとするはずなんです。デストールさんが 僕に良い影響を与える人間性の持ち主だと信じているからこそ、兄さんは僕に デストールさんの教えを乞いに行くよう言ったんです」 「……」 瞬の言葉の意味を汲み取ることができずに戸惑うことになったのは、今度はデストールの方だった。 瞬の言うことには筋が通っていると思う。 確かに それは理路整然、妥当な判断に思われた。 だが、実際問題として、デストールは自分を“いい人”だと思ったことはなかったし、一輝が蟹座の黄金聖闘士を“いい人”だと認識しているとも思えなかったのである。 瞬の主張は、確かに筋が通っている。 しかし、現実はそうではない。 デストールが混乱するのは無理からぬことだったろう。 その混乱に明瞭明確な説明をつけることができないまま、デストールは鳳凰座の聖闘士の弟を しげしげと見詰めた。 「ああ、一輝は あんたからキグナスを遠ざけたいんだったわね。あたしが近付いてOKで、キグナスは駄目ってことは、そのキグナスって よほどのろくでなしなのね。あたしより ろくでなしって、ものすごいろくでなしってことよ」 「そんなこと、ありません。氷河は――」 「まあ、既に一輝から講義代は受け取っちゃったあとだし、あたしの男を見る目は ちゃんと伝授してあげるわよ。その目でキグナスを見て、自分で判断するのがいいわね」 「お願いします」 瞬が再び、デストールの前で丁寧に腰を折る。 兄とは似ても似つかない瞬の腰の低さに、デストールは少々――否、かなり――面食らっていた。 「でも、あたしの男を見る目って、持って生まれた卓越した美的センスと、人生経験で培ってきた直感で できてるのよねー。論理的な体系があるわけでもないし、どうやって伝授したものか――」 「あの……講義なんて堅苦しく考えず、僕と お話してください。デストールさんの好きなもの、何を美しいと感じるか、どんなものに価値があると考えるか、そんなことを」 「あたしの好きなもの? 美しいと感じるものねえ……」 一瞬 考え込み、僅かに唇を歪める。 そうしてから、デストールは おもむろに口を開いた。 「馬鹿な男が好きよ。諦めが悪くて、得にもならない義理だの信念だののために 命をかけるような馬鹿な男。そうね。あたしは、あたしにないものを持っている男が好きなのよ。だから、馬鹿が大好物。あんたの兄さんみたいな」 「兄さんが馬鹿? そうですね……。そうなのかもしれない。兄さんは本当に馬鹿だ……」 「あら、認めるの? さすがは、人を疑うことを知らない素直な いい子だけあるわね。身内の悪口も すんなり信じるなんて」 「デストールさんは兄さんの悪口を言っているようには思えませんでした」 「……」 もちろん、デストールは悪口を言ったつもりはなかった。 “馬鹿な男”は、彼にとって最高の褒め言葉。 それがわかる程度には、鳳凰座の聖闘士の弟は馬鹿ではないらしい。 馬鹿ではない子供は デストールの好みではなかったし、瞬の顔立ちも、どちらかといえば デストールの“好き”の範疇に収まっていなかったのだが、彼は、意地になって それを嫌ってみせるような無駄なことはしない男だった。 全く自分の好みのタイプではないアンドロメダ座の聖闘士。 デストールは、瞬の前で、その顔を遠慮なく歪めた。 「それにしても……。あんた、あたしに何をされたか忘れたの」 「デストールさんこそ、僕に何をされたか お忘れですか」 「忘れるわけないわ。でも、あれは、あたしがトンマだっただけよ」 「デストールさんは お優しいですね……。僕は、デストールさんの人となりを ろくに確かめもせず、巨蟹宮を通り抜けることだけを考えて、あんなことをしてしまったのに、許してくださるなんて……」 瞳を潤ませさえして そんなことを言うアンドロメダ座の聖闘士に、デストールは怖気を覚えた。 そんな理由で、“お優しい人”にされてしまっては たまらない。 「許すなんて言ってないわよ。それ以前の問題だって言ってるの。あたしの自己責任だって」 「普通は人のせいにしたがるのに。なんて潔くて、清廉潔白な――」 「あら。あんたでも“普通”がどんなものだか知ってるの。でも、そうじゃなくて、だから、あたしは、聖域と冥界を秤にかけて寝返りを企むような奴なのよ」 「人が迷うのは自然なことです。迷って、その後、どう決意し、どう行動したのかが大事なのだと思います。デストールさんは 結局、冥界に寝返ることをせず、聖域とアテナを守ることを決意されたんでしょう?」 「それは単に、冥界より聖域側の方に いい男が多かったってだけのことで、別に崇高な考えや決意があってのことじゃないわよ」 「向後のことを、人を見て決める。それは とても賢明な判断方法でしょう。人の美点を 虚心に認め受け入れることができるというのは、それこそ大きな美徳だと思います」 「あんたねー……」 やはり 好きなタイプではない――と、デストールは思った。 アンドロメダ座の聖闘士もまた、蟹座の黄金聖闘士が持っていないものを持っている人間であることは確かなのだが――瞬と話していると、いらいらしてくるのだ。 デストールの“いらいら”は、そろそろ怒りの領域に足を踏み入れそうになっていた。 「ほんと、ああ言えば こう言う子ね。だから、あたしは いい人間でも清らかな人間でも潔い人間でもないの!」 「兄さんは――兄は、人にも自分にも厳しい人です。その兄さんが信じている人なんですから、デストールさんは――」 「あのねー。人は、あんたが信じてるみたいに、いい人ばっかりじゃないの。むしろ、いい人なんていないの。人は大抵は、悪心と良心の両方を持っているものなの。あんまり人を信じすぎるのはよくないわよ。それが悪いことだとは言わないけど、もう少し 人の悪意に用心しなさいよ」 人を信じすぎる弟の行く末を、一輝が案じる気持ちが よくわかる。 これでは、実の兄でなくても、瞬の将来が心配になってしまうではないか。 “人を見る目”を持つ大人の立場から、デストールは瞬に忠告せずにはいられなかったのである。 それでも、人をすぐに信じる素直な いい子の瞬は、自分の主張を曲げなかった。 「そうです。デストールさんの おっしゃる通り、人間は、悪心と良心の両方を持つ存在です。美点と欠点があるものです。でも、人はなぜか他人の欠点の方に目を向けることが多い。人には、人の美点より欠点に気付き 認めることの方が容易なんです。多分、その方が、自分だけが俗悪な人間なのだと思わずに済むから。でも、人は――人には、誰にだって いいところがある。誰にでも、清らかな心、美しい心がある。人の そういうところに気付き認めることができるから、人は人を信じることができる。だからこそ人は、人と損得を考えない友情や愛情というものを他者に対して抱くことをする――」 「それはまあ……完全に間違った考えだとは、あたしも思わないけど……」 「デストールさんを、兄さんはいい人だと言い、僕は そうだろうかと疑う。それは、僕より兄さんの方が デストールさんを深くよく見て知っているからです。目につきやすい欠点でなく、注意していなければ気付き認めることの難しい美点を見付けたから、兄さんはデストールさんを友人として遇し、接しているんです。兄さんが気付き認めたことに――デストールさんの美点に、僕は今まで気付いていなかった。僕の“人を見る目”は、兄さんよりずっと未熟で 拙くて、人の深いところまで見ることができていなかったから。僕には人を見る目がない。デストールさんは、僕のことなんか放っておくこともできるんです。でも、そうしなかった。そうせずに、こうして わざわざ時間を割いて、人を見る目を僕に教える労を取ってくださっている。デストールさんは優しい心を持った方です」 「……」 人を疑うことを知らず、人を信じすぎる素直な いい子の、この長広舌。 卑劣、卑怯、日和見主義の蟹座の黄金聖闘士を、妥当な論拠を挙げて“優しい心を持った いい人”にしてのける、その確固たる信念、揺るぎない価値観。 瞬は 決して気負って語っているわけではないのに――むしろ、その口調は やわらかで穏やかでさえあるのに――デストールは、瞬に反駁することができなかった。 反駁しようにも、瞬の論証を覆すための有効な理屈が思いつかない。 そんな自分を自覚して、そんな自分に対して、デストールの唇は自嘲めいた笑いで歪むことになったのである。 鳳凰座の聖闘士の弟は、絶対に蟹座の黄金聖闘士の好きなタイプではない。 だが、だからといって、無理に嫌うこともないだろう。 デストールは、瞬の澄んだ瞳の前で、そう思った。 |