「あんたの弟、誰でも いい人だと盲目的に信じてるわけじゃないわよ」 ネイルケア用具一式を既に受け取っている手前、講義の成果はともかくも、蟹座の黄金聖闘士が頼まれた仕事に取りかかった報告だけは しておかなければならない。 デストールは、その点、きっちり筋を通す男だった。 「そうじゃなく、あの子は、自分の目の前にいる人間を、誰も彼も いい人にしちゃうのよ。対峙する人間の心を、あの澄んだ目で変えてしまう。正直、あたしには、あの子の目を変えることはできないと思うわ。変える必要もないと思うし。人間が悪心と良心、二つの心を持つ存在なら、あの子は あの子の目の力で、対峙する人間の良心を目覚めさせ、強く大きくするわよ」 デストールが一輝に告げたことは、瞬の兄には とうの昔にわかっていたことだったらしい。 『瞬に男を見る目を伝授してほしい』という彼の頼みの目的格である“男”は、男全般ではなく、人類全般でもなく、実は ただ一人の“男”だったようだった。 「俺は、瞬を変えろとは言っていない。ただ、氷河がろくでもない男だということを、瞬に教えてやってほしいと言っているんだ。瞬は絶対に氷河に騙されている!」 「だから、そのキグナスが どれほど ろくでなしの悪党でも、あんたの弟は、その ろくでなしの悪党を“いい人”に変えるだけの力を持ってるわよって、あたしは言ってるの。あんた、自分の弟の力を信じてないの」 「……」 デストールに そう問われ、一輝が沈黙する。 一輝は弟を信じていないわけでも、弟の力を信じていないわけでもなく、ただ 彼の弟にべったりと くっついている男が気に入らないだけだったのだ。 弟の力の強さをデストールに保証されても、彼は彼の頼みを撤回しようとはしなかった。 デストールが、鳳凰座の聖闘士の頑固に呆れた顔になる。 「人の美点だけを見ようとする弟とは真逆ね。早いとこ、そのブラコン、治した方がいいわよ。いつか、あんたの命取りになるから」 「余計なお世話だっ」 「まっ、あたしに そんな口きくなんて、あんた、今すぐ死にたいらしいわね。そんなに このあたしの華麗なる必殺の桃尻爆弾(ピーチ・ボンバー)『通称 桃爆』を食らいたいの!」 「あんな おぞましい技を食らってたまるか! それを氷河に食らわしてやってくれと言っているんだ、俺は! それで奴がくたばってくれたら、瞬を不幸にする災いの芽が一つ消えることになる!」 「ったく、あんたって男は つくづく……」 身勝手なブラコン兄貴だと言いかけたデストールは、だが、その言葉を あえて喉の奥に押しやった。 デストールは 損得勘定のできる男、人間が 自分の益になることをして何がいけないのだと考える男である。 眼の前に病的なブラコン兄貴がいて、そのブラコンが 愛する弟のためになら どんなことでも辞さない覚悟でいるのだ。 この状況を利用して 自分の益を図らない法はない。 自分が望む通りの幸福を弟に押しつけようとしている身勝手な兄に、デストールは ちらりと意味ありげな視線を投げた。 「キグナスに、あたしの華麗なる必殺の桃尻爆弾(ピーチ・ボンバー)『通称 桃爆』を食らわすくらいのことはしてやってもいいけど、でもお……。ただで?」 「頼むっ。一生に一度の男の頼みをきいてくれっ」 「男に そんなふうに頭を下げられたら、あんたの頼みをきいてあげないわけにはいかないけど、でもお……ただで?」 魚心あれば水心。 デストールの視線の語るところを 素早く察知し、一輝が、彼の頼みの報酬を蟹座の黄金聖闘士に提示する。 「シャネルの今年の春の新商品一式に、育毛剤養毛剤、頭皮エステグッズ一式をつけよう」 「任しとき!」 報酬が約束されているのなら、ためらう理由はない。 デストールは即断即決即答した。 二人の人間の間で 仕事と報酬の折り合いがつき、双方に不満も不足もない契約が結ばれるのは結構なことである。 一輝は、だが、あまりにも現金かつ安請け合いとしか思えないデストールの即断即決振りに、さすがに呆れてしまったらしい。 彼は、少々 疲労感の漂う視線を 蟹座の黄金聖闘士の上に投じてしまったのである。 「瞬は……貴様のことも、いい人だと言ったのか」 「もちろんよ。見る目があるわ、あんたの弟」 「見る目がなさすぎだ」 嘆かわしげに、一輝が頭を振る。 そんな一輝の耳に、 「でも、そういや、あたし、肝心のキグナスを知らないのよね〜」 という無責任極まりないデストールのセリフが飛び込んできて、一輝の不安を更に募らせてくれたのだった。 |