瞬のチェーンで動きを封じられたところに、氷河のフリージング・コフィンを食らい、球状のまま かちかちに凍ってしまった蟹座の黄金聖闘士。 あちらの木にぶつかっては 撥ね返され、こちらのベンチにぶつかっては方向転換を余儀なくされ――直径 約1メートルの氷球になり果てたデストールは、城戸邸の庭をごろんごろんと転がり続けている。 いったい今 この城戸邸の庭で何が起こったのか、すべての事情を把握できているのは、鳳凰座の聖闘士ただ一人だけだった。 氷河と瞬は、なぜデストールが急に自分たちに攻撃を仕掛けてきたのかが理解できず――というより、むしろ、デストールの華麗なる必殺の桃尻爆弾(ピーチ・ボンバー)『通称 桃爆』が どういう技なのかが理解できず――地面を ごろごろ転がっている蟹座の黄金聖闘士を、ただただ驚き あっけにとられて眺めていることしかできずにいた。 「この奇天烈な丸い物体は、いったい何だ」 「もしかして、デストールさん……? どうして? なぜ、こんなことに……」 瞬の兄がデストールに“男を見る目”の伝授を頼んだことが すべての発端、この事態を招いた そもそものきっかけ。 一輝は さすがに デストールを氷球のままにして捨て置くわけにはいかなかったのである。 城戸邸の庭を ごろごろ転がっているデストールを呆然と見詰めている瞬に、一輝は、デストール解凍を依頼した。 「瞬、こいつを融かしてやってくれ。さっきの華麗なる必殺の桃尻なんとかは、ちょっとした冗談、ただ ふざけただけだったんだ」 「で……でも、デストールさん、確かに氷河めがけて――」 「黄金聖闘士のくせに 強いのか弱いのかも わからない、本当に仕様のない奴だが、こいつは悪いオカマではないんだ。助けてやってくれ」 「兄さん……」 それは、苦笑なのか、困惑なのか、苦渋なのか。 あるいは、驚嘆なのか、嘆きなのか、優しさなのか。 瞬にデストール解凍を頼んでくる一輝の顔と その表情は 実に複雑で――あまりに色々な感情が混じり合っていて――瞬は、兄のそんな表情を見るのは、これが初めてだった。 デストールは鳳凰座の聖闘士に こんな表情を作らせることのできる稀有な――特別な存在なのだ。 「デストールさんは、兄さんのお友だちなんですね……。わかりました」 こんな目をした兄の頼みを断ることなどできるはずがない。 瞬は、不満げな氷河を視線で制して、その小宇宙を極限近くまで燃やし、デストールを――兄の友を――氷球の棺の中から解き放ってやったのである。 デストールの復活後の第一声が、 「ぎゃーっ! 女に触られたーっ!」 だったことにも、(絶対に嬉しいわけではなかったが)腹も立たない。 デストールの元気な様子に、瞬はむしろ安堵し、そして喜んだ。 「デストールさん、僕です」 「あ……ああ、あんたなの。あんた、ほんとに心臓に悪い顔してるわね。あたしの繊細な心臓がショックで止まりかけたわよお」 「すみません。でも、無事でよかった」 「あったりまえよお。この棺桶屋のデストールが、こんなことくらいで くたばるわけないでしょ。ったく、全部、あんたの兄貴のせいよ! 俺の弟は蟹座のデストールより強いなんて、自慢するから! そりゃあ、青銅聖闘士ごときに あたしが負けるはずがないって、対抗意識燃やした あたしも馬鹿だったけどお」 「え……」 デストールの攻撃は、確かに白鳥座の聖闘士を標的にしたものだった。 どう考えても、デストールは嘘をついている。 なぜ、何のために。 そして、誰のために? 「ああん、こんな急激な温度の変化、お肌にも髪にも爪にも よくないのにぃ!」 デストールは事情を聞かれたくないらしい。 そして、事実を告げる気もないらしい。 瞬は しばし悩み、結局、デストールの意思を尊重することにしたのである。 兄の友人であるデストールが、兄のためにならないことをするはずがない。 デストールの目は、澄んではいなかったが、温かだった。 「嘘をつくな」 短く そう言って、一輝がその場を立ち去る。 兄が場を外しても、瞬は デストールに何も訊かなかった。 華麗なる必殺の桃尻爆弾(ピーチ・ボンバー)『通称 桃爆』の的にされた氷河も、何も言わない。 デストールが 誰にも告げずにいるつもりでいる真実は 知らないでいる方がいいことなのだと、瞬には信じることができた。 デストールは、兄の友だちなのだから。 「デストールさん」 何より瞬は、今は、“知りたい”気持ちより“知ってほしい”という気持ちの方が強かったのである。 兄のことを、兄の友人に。 「な……なによ」 澄んではいないが温かい目をしたデストールは、瞬の澄んだ目に出会い、どぎまぎする素振りを見せた。 瞬は、デストールを見上げ、見詰め、彼に訴えた。 「僕の兄さんは、不器用だけど優しい人です」 「知ってるわよ」 「兄さんは……ほんの小さな子供だった頃から、僕のために苦労し続けてきた。僕が非力で弱い弟だったばっかりに――僕のために、兄さんは いつも強い兄でいなければならなかった。どんな苦しい時にも、つらい時にも、悲しい時にも、兄さんは弱音を吐いたりできなかったんです。負けることもできなかった。泣いたり、笑ったり、気弱な表情を作ったり、不安がったり、そういう感情を絶対に表に出すことができなかった。そんなことをしたら、僕までが泣いてしまうから。兄さんは、僕のために、いつも強い兄でいなければならなかった。本当は 兄さんにだって、泣きたい時や 弱音を吐きたい時があったはずなのに……。兄さんは、その命の炎が燃え尽きようとしている時にさえ、僕が泣いてしまわないように、いつも笑っていました」 「命の炎が燃え尽きようとしている時にさえ――って、一輝って、死んだことがあるの?」 「何度も」 「何度も? 一輝って、人間なの?」 ここに一輝がいたなら、『貴様にだけは言われたくない』と、瞬とデストールの間に横やりを入れてきていたに違いない。 幸か不幸か、一輝はどこかに姿を消したあとだったので、瞬は兄に邪魔されることなく、その願いをデストールに告げることができたのである。 「僕の兄さんを、末永くお願いします。デストールさんは、本当の意味で、一輝兄さんの初めての友だちです」 ――と。 「あら、一輝をあたしに任せてくれるの?」 「はい。デストールさんが初めてです。兄さんに あんな表情をさせることができた人は。慌てた顔、困った顔、笑った顔――兄さんをあんなに自然に表情豊かにすることは、僕にはできなかった……」 どんなに 素直な いい弟でいようとしても、どんなに強い弟になろうとしても、そして 実際に強い弟になっても――瞬は、デストールにはできたことを、兄に対してすることができなかった。 瞬がどんな弟になっても、どんな聖闘士になっても―― 一輝にとって瞬は 兄がいないと駄目な弟。 瞬がどんな弟になっても、どんな聖闘士になっても――幼い頃からいつも 兄の陰に隠れ、兄に守られ庇ってもらっていた泣き虫の弟の面影を、一輝はその胸中から消し去ることができないのだ。 「僕は、どうしてもどうしても兄さんに幸せになってほしいんです。そのためには、デストールさんの存在が必要です」 「あたしって、人にものを頼まれたら 嫌とは言えない お人好しだからあ、そういうことなら、兄を思う弟の健気な心に免じて、お礼なしで 任されたげるわ〜」 馬鹿で愉快な鳳凰座の聖闘士を“任される”――。 健気な弟の願いは、デストールにとっても 願ったり叶ったりの、愉快で楽しい仕事だった。 デストールは仕事の報酬を要求することもせず、鳳凰座の聖闘士の健気な弟の願いに、二つ返事で頷いてやったのである。 |