愛と優しさ、暖かい思い遣りに あふれた日々――平和で幸福な二人の日々。
そんな状況が一変することになったのは、アウストラシア王国がネウストリア王国を滅ぼして6年後――氷河と瞬が出会ってから6年後。
直接のきっかけは、兄弟の父である将軍が陣中で没したことだった。
将軍の命を奪ったものは対立国との戦闘ではなく、病だった。
常勝将軍のいる陣には 敵国軍も襲撃を仕掛けにくい。
国境を守るため戦線を渡り歩いていた将軍には 心身の休まる時がなく、積もる疲労が些細な病を重篤なものにした。
死の床で彼が彼の長子に残した最期の言葉は、
「おまえは私の誇りだ。瞬とアウストラシアを守れ」
故国を守るために努めてきた一国の将軍として、子供たちの父親として、ごく普通の遺言。
普通であるがゆえに、普遍性を持つ願い。
一輝は、その願いを叶えるために誠心誠意努めることを、死にゆく父に約したのである。

国をあげての葬儀には、対立国の君主たちからも将軍の死を悼む言葉が寄せられ、彼等は、騎士道精神にのっとって、その死から30日間、故人に敬意を表し、アウストラシア軍との戦闘行為には及ばない旨をアウストラシアに通達してきた。
ために一輝は戦線を離れ、アウストラシア王国の都に――今となっては、ただ一人の肉親の許に――帰ることができたのである。
父の葬儀、伯爵位の継承、何より 遠く離れた場所で父の死の報を聞くことになった弟の心を慰めるために、彼はアウストラシア王国の都に、弟の待つ城に帰還した。
そうして彼は知ったのである。
共に過ごした時間はほとんどなかった父の死を嘆く瞬の心を、その兄より先に、もしかしたら その兄より上手く適切に慰めた者が誰だったのかを。
父の死の知らせに接した瞬が 最初に頼り すがったのが、彼の実の兄ではなく、どこの馬の骨とも知れない敵国の孤児だったことを。

側にいない肉親より、常に側にいて 事あるたびに直接 支えてくれる友人知人を 人が頼りに思うのは、ある意味 自然なことである。
血がつながり、心がつながり合っていても、その時 側にいない人間は 悲しむ人の肩を抱いてやることはできないのだ。
だが、瞬の父と兄が 瞬の側にいてやることができなかったのは、故国アウストラシア王国を守るため――つまりは瞬を守るため。
一輝にしてみれば、氷河は、瞬の父と兄が瞬のために命がけの務めを果たしている隙に、瞬と瞬の心に近付いた泥棒猫。
氷河の存在は、都を遠く離れた辺境で 瞬の身を案じながら死んでいった彼の父を侮辱するものだった。

しかも、その泥棒猫は、滅亡した国の孤児、召使いという立場にありながら、瞬のそれと遜色のない衣服を身に着け、瞬と同じものを瞬と同じ食卓で食し、瞬と同じ教育を受け、到底 召使いに与えられるべきではない広く清潔な部屋で寝起きしている、図々しい身の程知らず。
それが亡父の指示だったことは一輝も知っていたが、現実に その様を己が目で見ると、氷河に与えられた分不相応なあれこれが、彼は大いに気に入らなかったのである。
何より瞬が それを当たりまえのことと思っているらしいことが、一輝の気に障った。

『召使いには、召使いにふさわしいものを』と言って、一輝が亡父の指示を撤回したのは、決して彼の横暴ではなかっただろう。
『召使いには、召使いにふさわしいものを』
それは自然で、当然のことである。
部屋も服も食事も、他の召使いと同じものを。
一輝には、父の跡を継いだ伯爵家の当主として、氷河に そう命じる権利もあった。
もともと一輝は武人、卑劣卑怯を憎み規律を守り重んじることを是とする軍人。
氷河を本来あるべき待遇を与え、身分の違いを自覚するように彼に命じたのは、一輝の冷酷でも意地悪でもなく、正しく“当然のこと”といえた。
瞬と気安く話をするなという命令には、多少の嫉妬が含まれていたかもしれなかったが。

「どうして氷河と仲良くしちゃいけないの?」
一輝にとっては正しく適切なことが、しかし、瞬にはそうではなかった。
やっと兄が帰ってきてくれたと、その帰還を喜んだのも束の間、突然 氷河から氷河のものを奪い始めた兄の振舞いが、瞬には全く理解できなかったのである。
瞬に問われた一輝は、そんな瞬の認識を正そうとした。
瞬の認識を“正す”――瞬の認識は間違っているのだ。
「氷河は貴族でも何でもない、ただの召使い、我が家に仕える下僕だ。しかも、我が国に滅ぼされた敵国の生まれ。自分のものと言えるものは、その身一つしかない みなしごだ。そういう者には、そういう者にふさわしい待遇というものがある」
「僕もみなしごだよ」
父も母もない みなしご。
今は確かに瞬は そういうもので――たかが敵国の孤児のために、自分をそう表する瞬が、一輝は切なく、悲しく――そして、それ以上に腹立たしかったのである。

「おまえには、この兄がいる。おまえは、アウストラシア王国の伯爵家の血を引く貴族で、母親はアウストラシア王家の血を引く王女だ。いずれ この国の元帥になろうという俺の弟。この国に おまえより高貴な人間は、国王と その家族しかいない。それに比して、氷河は身分も地位も どんな力も持っていない、どこの誰とも知れない馬の骨だ」
「兄さん……」
その馬の骨は、瞬には誰より大切な人だった。
瞬が肉親と共にいることのできない孤独に苦しまずにいられたのも、父の死の耐えることができたのも、氷河が側にいてくれたからこそ。
氷河がいてくれなかったら、自分は6年も前に 寂しさに耐えきれず、自らを見捨てられた人間なのだと思い込み、儚くなってしまっていただろう――。
それが瞬の“認識”で、紛う方なき“事実”だった。

だから――氷河と兄の対立は、瞬には悲しいばかりのことだったのである。
最初は、一方的に一輝が氷河を蔑み憎んでいるだけだったのだが、会うたびに憎悪の感情を剥き出しにされていれば、氷河の方も一輝に好意を抱いていられるはずがない。
そんな二人の間で、瞬は苦悩することになってしまったのである。

「きっと、氷河は、ネウストリアの王子様だったんだよ。こんなに綺麗なんだもの」
瞬が氷河にそう言うと、氷河は、
「たとえ そうだったとしても、今は仇の国の人間に使われる奴僕にすぎん」
と応じ、同じことを兄に言うと、
「ああ、いっそ そうだったらよかったんだ。奴がネウストリアの王子だったなら、アウストラシアに仇なす可能性のある危険人物として捕え、処刑することもできるのに。奴の本当の身分を確かめる術がないのは、かえすがえすも残念なことだ」
という答えが返ってくる。
瞬には優しい二人が、それぞれ互いのこととなると、人間らしい思い遣りを全く示そうとしなかった。

瞬にとっては不幸中の幸い、氷河にとっては幸いなことに、30日間の休戦期間が過ぎると、父の跡を継いだ一輝は、アウストラシアの防衛線を守るために各戦線を渡り歩く日々を再開することになった。
一輝は、父の存命時以上に弟の側にいることができなくなったのである。
もちろん一輝は、任地に戻る際、館の者に、氷河を使用人として遇するように厳命を残していったのだが、当主である一輝がいなくなれば、館で最も強い権限を持つのは瞬になり、瞬に泣きつかれると、その涙に逆らえる者は館内には ただの一人もいなかった。

僅か16歳で父の将軍職を継いだ一輝は、アウストラシア国全軍の統率権を与えられ、そのため アウストラシアの都にある彼の城に帰ってくることは ほとんどできない。
年に1、2度、兄が帰ってきた時にのみ、兄の命令が守られている振りをするのは、城の者全員を味方につけている瞬には ごく容易なことだった。
アウストラシア王国の国境線では、月に幾度か小競り合いが起きていた。
全面戦争には至らないが、数ヶ月に一度は中部隊同士の衝突も起こる。
もちろん一輝は それらの戦闘には すべて勝利を収めていたが、なにしろ対立国が多いため、敵を殲滅することまではできない。
アウストラシア王国が――今は亡き兄弟の父が――ネウストリア王国を滅ぼすことができたのは、まさに千載一遇の時宜を得てのことだったのだ。

「今、国内の通信網の整備を始めている。狼煙や光で瞬時に情報を伝達できる物見の塔を国中に建て、国境のどこに敵襲があっても、その情報が数時間のうちにアウストラシアの都に届く仕組みだ。その仕組みが完成すれば、俺は国境の各戦線をまわらずとも、都で知らせを受け 戦闘が起きそうな場所に すぐに駆けつけることができるようになる。都に常駐したままで将軍の務めを全うすることができるようになるんだ。そうなれば、俺は これまでのように おまえに寂しい思いをさせずに済むようになる」
たまに瞬の許に帰ってきて、氷河の様子を確かめ、そんなことを言っては国境の戦線に戻っていく兄。
兄弟の父が亡くなってから、そんな日々が更に4年 続いた。






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