そうして、氷河がアウストラシア王国に連れてこられてから10年――氷河の故国ネウストリア王国が滅んで10年後。 当然のことながら、氷河、瞬、一輝の上にも同じだけの時間が流れ、彼等は既に子供とは呼べない年齢になっていた。 アウストラシアの国王も代変わりし、現在は、瞬たちの父を信任してくれた王の息子がアウストラシアの国王に就いている。 この王が、戦のことは何も知らず、彼自身は戦場に足を踏み入れたことは一度もないのに、華々しい戦功を求める見栄っ張りで、戦地の現実を知る者たちを辟易させていた。 功名心に走りがちで、軽率なこと以外には、浪費癖があるわけでも残虐な性向があるわけでもなかったので、彼は それなりに愛すべき国王ではあったのだが。 そんなふうに、だが、時を経て 変わったのは人間たちばかり。 国の状況には ほとんど変化がなく、アウストラシア王国は、ネウストリア王国滅亡直後と変わらず、ブルグント王国、アキテーヌ王国、ブルターニュ王国等、利害を異にする周辺国との睨み合いを続けていた。 それらの国々の中ではネウストリア王国を併合したアウストラシア王国の軍隊が最大の勢力を誇っていたのだが、軍事力に驕ってアウストラシア王国が周辺国のいずれかへの侵略を開始すれば、漁夫の利を得ようとする国が出るかもしれず、周辺国同士が同盟を結んでアウストラシア王国に対抗しようと画策することがあるかもしれない。 アウストラシア王国とその周辺国が力の均衡を保ち、平和を維持することが、アウストラシア王国のみならず すべての国にとっての幸い。 それが、たまたま僥倖を得てネウストリア王国を攻め滅ぼすことのできた故将軍の考えだった。 ところが、ある時、『父の代にネウストリア王国を滅ぼしたように、自分の代にも輝かしい戦果を』と、無謀な夢を見たアウストラシア現国王が、一輝に相談もせず、ブルターニュ王国に兵を出すことを画策し始めたのである。 王の無謀を止めてくれという国務大臣たちからの要請を受け、一輝は 急遽 国境の戦線から都に戻る羽目になった。 居並ぶ大臣たちと、今はアウストラシア王国軍元帥となった一輝、彼の麾下にある将軍たちに計画の無謀を説かれると、決して豪胆でも強情でもない優柔不断な国王は比較的あっさりと彼の計画を断念してくれたのだが、問題は その後に起こった。 せっかく都に戻ったのだから、戦地に帰る前に 一目瞬に会っておこうと考えた一輝が、その考えを実行に移したことが、氷河と瞬の身の上を大きく変えることになってしまったのである。 一輝の帰館は予定外のことで、一輝は館の者には誰にも――もちろん瞬にも――事前に連絡を入れることをしなかった。 瞬を驚かせようとして、士卒を一人も伴わず単騎で彼の城に戻った一輝は、そこで とんでもない場面を目撃することになってしまったのである。 おそらくは瞬の指図で 召使いには似つかわしくない上等の服を着た氷河が、庭で瞬と剣の練習をしている光景を。 護身のためにと、瞬に剣術の教師をつけてはいた。 自分の手では花を一輪 手折ることもできないような瞬が、故将軍の息子、現元帥の弟にふさわしい剣の腕を身につけることができるとは、一輝も思ってはいなかったのだが、瞬の剣捌きは見事なものだった。 敏捷で勘がよく、技術だけなら申し分がない。 実戦でなく ルールにのっとった立ち合いでなら、瞬に勝てる剣士はアウストラシア国軍の中には一人もいないのではないかと思えるほど。 しかも、その所作が いちいち美しい。 か弱い花とばかり思っていた弟の、思いもよらない巧みな技に、一輝は尋常でなく驚かされたのである。 だが、彼にとって 問題なのは、その瞬と互角に戦っているのが、ネウストリアから拾われてきた孤児だということだった。 瞬は おそらく自分だけが剣術を学ぶのが嫌で、氷河と共に その術を学ぼうとしたのだろうが、もしかしたらアウストラシアを――瞬を含むアウストラシア王国を――仇と狙っているかもしれない氷河に剣術を教えるなど、危険極まりないことである。 瞬は、決して戦う術を与えてはならない相手に 戦う術を与えようとしている――与えてしまったのだ。 しかも、氷河は、一輝の見ている前で、瞬の剣を 巧みにあしらい、瞬の手から剣を叩き落とすということをしてのけた。 それだけなら まだしも、瞬はアウストラシア王国の貴族であり 氷河の主人である自分が、今は失われた敵国の孤児に――召使い風情に――敗北を喫したというのに、自らの敗北を喜んでいるような素振りを示しているではないか――。 「やっぱり、氷河との立ち会いがいちばん楽しい。先生相手だと、勝っちゃうのが申し訳なくて、戦いにくくて――。氷河相手だと、手加減の必要がなくて、思い切り戦える。僕より強くなられちゃったのは、ちょっと癪だけど」 「おまえより強くはあるまい。俺は おまえから2本に1本取れればいい方だし、せいぜい五分五分といったところだ。まったく、信じられない話だ。おまえは こんなに華奢で、剣を持つ力もないように見えるのに。おまえ、剣術だけに限れば、へたをすると一輝より強いんじゃないか?」 それは、瞬と五分五分の腕を持つ召使いが この国の元帥よりも強いという意味なのか――。 お情けで生かしてもらっている召使い風情が、何を偉そうに自分の主人を 貶めているのか。 氷河は、自分の立場を理解しているのか。 叶うことなら毎日 側にいて、剣術だろうが兵法だろうが 手ずから教えてやりたい瞬の兄の苦衷を、この身の程知らずは わかっているのか――。 一輝は、下郎の傲慢に怒り心頭に発することになったのである。 すぐさま瞬の側から氷河を引き離そうとして、一輝が一歩 足を前に踏み出した時だった。 「僕が兄さんより強いはずがないでしょう。冗談でも そんなことは言わないで」 瞬が 瞬らしく謙虚な言葉で氷河をたしなめ、 「それはどうか わからんぞ」 氷河が、召使いらしからぬ傲慢さで 瞬に応じたのは。 そうして氷河は、彼が瞬の手から払い落とした剣を拾い、瞬の手に握らせ――しっかりと握らせ――あろうことか、そのまま瞬の唇に 自らの唇を重ねることをしてしまったのだ。 渡された剣で、なぜ瞬は氷河を叩き切らないのか。 あってはならぬ光景を見せられた一輝は、まず そう思った。 そうしたいのなら そうしろという意味で、氷河は瞬に剣を握らせたに違いないのに。 氷河はおそらく、瞬がそうしないことを知っていたのだ。 だから彼は、瞬の手に剣を握らせた。 自分の立場を わきまえることもなく、傲慢に。 一輝は、氷河への怒りを――否、憎しみを――もはや一瞬たりとも抑えることができなかったのである。 「氷河! 貴様、よくも瞬に……! 貴様は 即刻追放だ。たった今、この城を出ていけ! 二度と瞬の側に近寄るな! もし明日以降、貴様の姿が俺の視界に入ることがあったなら、その時が貴様の最期だ。今 殺されないだけ、有難いと思え!」 「兄さん……!」 「一輝……」 その時、一輝は 武器と言えるものを何一つ手にしていなかった。 兄に勝てるかもしれない瞬と五分五分の腕を持っていると豪語いる氷河が、一輝に切りかかってこなかったのは、ただただ その場に瞬が―― 一輝を敬愛している彼の弟が――いたからだったろう。 今となっては この地上に ただ一人だけの瞬の大切な近親を――瞬の兄以上に激しい憎悪の炎を その瞳にたたえて、氷河が睨みつけてくる。 「出ていけ! 二度と瞬に近付くな!」 「だめ! 氷河、氷河、行かないで!」 一輝の怒号と、瞬の懇願。 氷河が、瞬の言葉ではなく 一輝の命令に従ったのも、おそらくは一輝が瞬の愛する兄だったから。 「おまえの兄に対抗できるだけの力を得て、必ず おまえの許に帰ってくる」 その約束だけが、氷河が瞬に残した ただ一つのもの。 その日、氷河の姿は、瞬の前から――彼が10年という月日を瞬と共に過ごした城の中から、忽然と消えてしまったのだった。 |