「貴様……」
「直接 元帥殿に資金供与を申し出ても断られるだけだと思ったんでな。貴様と貴様の家がどうなろうと 俺の知ったことではないが、貴様の馬鹿王への忠義心のせいで瞬が不自由を強いられることになっては たまらん。あの城は、俺と瞬が10年を共に過ごした城、勝手に他人に売り払われては困るんだ」
一輝の前に現れた氷河は、アウストラシア王国の基準でいえば、貴族の恰好はしていなかった。
軍人、騎士の恰好でもなく、聖職者のそれでもなく――しいて言うなら、成功した商人、銀行家。
氷河は、へたな小貴族の子弟よりは はるかに凝って高価な衣服を身に着けていた。
だが、せいぜい20歳かそこいらの無一物の若造が、たった1年でそれほどの財を築けるものなのか――。
一輝の不審を察したらしい氷河は、そのあたりの事情を無頓着な様子で、瞬の兄に説明してくれた。

「俺はネウストリア王家の隠し財産のありかを憶えていたんでな。亡くなったネウストリアの最後の国王は、それで志ある者がネウストリア再興を果たしてくれることを願っていたんだが、俺は瞬と一緒にいられれば、他に望むことなどなかったから、そんな財産は俺には無用のものと ずっと放っておいたんだ。それが まさか こんなことで俺の役に立ってくれるとは。瞬は元気か」
「……」
一輝が氷河に応えを返さなかったのは、瞬が元気ではなかったからだった。
ネウストリアの最後の国王――それは氷河の父親なのだろうか? ――の悲願も顧みず、踏みにじり、自身の幸福だけを求める、こんな腑抜けのどこがいいのか、瞬は 氷河が伯爵家の城を追放されてからずっと 一人でふさいでいた。

「まあ、いい。おおよそのことは知っている。言っておくが、俺が野心家ではないなどとは思うなよ。俺が野心を捨てたのは、瞬が 戦は嫌いだと言ったからだ。貴様が俺を瞬から引き離しさえしなければ、俺は一生 瞬の従僕のままでいいと思っていたのに――」
「俺への復讐か、貴様の目的は」
「復讐? それもいいな。そうして 瞬の前に貴様の不様な姿を見せつけてやったら、瞬も、弟を顧みることもなく戦に明け暮れている兄を慕うことの愚を悟ってくれるかもしれん」
「俺は いつも瞬のことを気にかけていた。瞬の幸福だけが、俺の望みだ。ただ、父の願いが――」
「亡き名将殿の願いとは、アウストラシア王国の存続と繁栄か? 貴様が そのために努めていることを知っているから、瞬は、滅多に自分の許に帰ってきてくれない兄の冷たさにも、泣き言一つ言わずに耐えていたんだ」
「……」

氷河の目的が復讐でないというのなら、いったい氷河は何のためにアウストラシアに戻ってきて、彼の嫌いな男が当主を務める伯爵家を救ってみせたのか。
氷河の真意は、一輝には計りかねた。
ただ、彼は、瞬がなぜ あれほど氷河を必要とするのか、その訳だけは わかったのである。
氷河は、瞬が孤独だった時、その側にいて、瞬の孤独を癒した男。
氷河がいたから、家族のいない あの城で、瞬は真に孤独ではなかった。
だから 瞬は、今では、自分の孤独を癒してくれるのは氷河だけだと思い込んでいるのだ。
肉親に見捨てられて過ごした10年の孤独の日々が、瞬に そう信じさせることになった。
瞬の側にいてやらなかった瞬の兄が、瞬の心を氷河に寄り添わせてしまったのだ――。

苦い思いと共に、一輝は その事実に初めて気付いたのである。
だが、その事実を知ったからといって、今更 氷河に膝を屈することなどできるわけがない。
氷河に謝罪することも 感謝することも、一輝にはできなかった。
アウストラシア王国の貴族としての誇り、ネウストリア王国を滅ぼした将軍の息子としての誇りが、ネウストリアの孤児に屈することを、一輝にさせてくれなかったのだ。

「貴様がネウストリアの王家に関わりのある者だったとしても、その財でアウストラシア王国と我が伯爵家の窮地を救ったとしても――このアウストラシアでは、貴様は今も身分も地位も故国もない、ただのネウストリアの孤児にすぎん。瞬がどれほど望んでも、貴様が瞬に近付くことを、俺は決して許さん」
「身分……地位に身分か。瞬は そんなものより、いつも自分の側にいてくれる者、瞬がその愛と優しさを注ぐことのできる者の存在こそを望んでいた。瞬は、おまえを愛したかったんだ。毎日、いつも。瞬が本当に望んでいたことは、ただ それだけだった」

その望みを、瞬の兄は無視し、踏みにじり続けていたと、氷河は言うのか。
それを、氷河は憎み恨んでいるというのか。
だが――もし 瞬の兄が瞬の願いを踏みにじり続けていたことが事実だったとしても、一輝は その事実を認めるわけにはいかなかった。
それはアウストラシア王国の存続のために必要なことだったのだ。
そして、彼の父の最期の願いでもあった。
10年の孤独を瞬に強いることは、他にどうすることもできない、どうしようもないことだったのだ。
一輝にしてみれば、氷河は、瞬のために すべてを――自分にかけられた期待や願いを――捨てることができた幸運な男に過ぎなかった。
瞬の兄にはできなかったことを逡巡なくしてのけた、羨ましい、恵まれた、ただの我儘男にすぎなかった。
そして、そんな男に瞬を会わせることも、瞬を任せることも、一輝には到底できることではなかったのである。

「まあ、貴様が のたれ死にせず生きていたことだけは、瞬に知らせておいてやろう。だが、父の城に貴様を迎え入れることはしない――できない。貴族の城に 正門から入る権利を、貴様は持っていないんだ」
「……」
瞬に会うこと、以前のように召使いとしてでも瞬の側にいることが許されるなら、氷河は 本当にそれだけでいいと考えていたのだったかもしれない。
復讐、ネウストリア王国再興、瞬の兄の謝罪や感謝――そんなものは、氷河にはどうでもいいこと、何の価値もないものだったのだから。
ただ、彼は瞬の側にいたかったのだろう。
その ただ一つの願いが叶えられないと知って、彼は憤った――おそらく。
もしかしたら その時初めて、氷河は、瞬の兄に心からの憎悪を抱いたのかもしれなかった。
氷河は、開き直ったように 傲慢な顔つきになって、一輝を嘲り始めた。

「だが、今度のことで、貴様も思い知っただろう。今の世の中は、武力より金の方が強い力を持っている。死んだ親父に義理立てして、糞真面目に前線を転戦しているより、領地経営に身を入れて 財を蓄えた方が利口だぞ。その方が今のご時勢に合っている。貴様は、国を作っているのは、領土より人だということがわかっていない。貴様や貴様の親父の考え方は古いんだ。国がなくても民は生きていけるが、民のいない国はあり得ない。貴様の父には 俺の故国を滅ぼす力があったが、今の貴様にはアウストラシア王国の維持どころか、瞬一人を守る力さえない。貴様は無力だ。貴様が瞬の兄でさえなかったら、貴様のように時代遅れの石頭野郎など、俺は歯牙にもかけなかっただろう。こんな兄を持ってしまったばかりに、いらぬ心労を強いられている瞬が、俺は哀れでならない。だいいち、元帥様だか何だか知らないが、貴様は おそらく剣でも俺には勝てないぞ。偉そうに構えている貴様を、瞬の前で不様に打ち負かしてやりたいもんだ。馬鹿で、時代遅れで、剣の腕も大したことはない。貴族で、親父が名将だったから、親の七光で 偉そうにしていられるだけの馬鹿元帥だ、貴様は」
「ば……馬鹿元帥だとっ !? 」

氷河の非難は 正鵠を射たものなのかもしれないと、一輝も思わないでもなかった。
それでも――叶うことなら いつも瞬の側にいてやりたいという心を押し殺して、国のため 民のために務めてきた男に、それは あまりにひどい侮辱である。
一輝は、ネウストリアの孤児の暴言に黙ってはいられなかった。
「なら、貴様と俺のどちらが強く正しいのか、決闘で決着をつけようではないか」
「そうしたいのは やまやまだが、残念ながら それは無理な話だ」
「怖気づいたか。この口ばかり野郎が」
「怖気づいてなどおらん。残念なことに、俺は平民。身分が違う貴族様とは決闘ができないんだ」
「うぬ……」

氷河の言うことは事実だった。
貴族は平民と決闘することができない。
貴い身分の者が、平民ごときと決闘で名誉を争うことはできないのだ。
言葉に詰まった一輝を、氷河が せせら笑う。
縛られるものを何も持たないがゆえに傍若無人な この男を、だが、一輝は このままにはしておけなかった。
「王を動かして、貴様に 貴族の身分を与えさせる。それで不都合はあるまい。俺と決闘しろ」
「そう簡単にいくかな。新たな貴族の家を立てるには、誰もが認める国に対する功績と、王の承認、現在いる貴族の過半数の同意が必要なはずだ」
「国への功績はあるだろう。王は俺の求めを退けることはしない。貴族たちの同意など、俺の力をもってすればすぐにも得られる」

氷河との決闘は、万難を排してでも為されなければならない。
このネウストリアの孤児は、アウストラシア王国で政治的にも軍事的にも 国王以上の力を持つ人物を侮辱し、それだけならまだしも、その父までを侮辱した。
自分の故国が誰によって滅ぼされ、自分の命が誰によって救われたのかも忘れて。
一輝の怒りは尋常のものではなく、その怒りは実際に氷河を当主とする子爵家を一つ、アウストラシア王国に生ませたのである。
その当主である氷河が決闘で命を落とせば、即席で建てた子爵家は断絶するしかない。
ネウストリアの孤児が、アウストラシア王国の貴族として その地位を長く保つことはできない。
これは、二人の男が決闘を行なうための一時的な方便。
一輝は そう考えていた。






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