女より腕力と戦闘力。 強さにこそ価値があり、女には興味なし。 氷河は、一輝を そういう男だと思い、だからこそ“硬い”と評した。 が、それが実は とんでもない勘違い。 一輝は、単に、問題解決に女の力を借りるのが嫌なだけで、女そのものに興味がなかったわけではなかったのだ――という事実に 氷河が気付いたのは、彼等がアマゾン族の国に来て3日目の朝。 一輝が、 「この国の女は、皆が皆 戦士になるわけではないようだな」 と言い出した時のことだった。 聞けば、一輝の許に毎日の食事を運び 日々の生活の細々とした世話をしてくれるエスメラルダという名の少女が あまりに戦士向きではないので、そのあたりのことを尋ねてみたら、この国には戦場には赴かず 織物や食事の支度・洗濯といった仕事だけをする女もいて、自分は そういう戦士不適格と見なされた女の一人なのだと、彼女は答えてきたのだそうだった。 一輝は その少女が いたく気に入ったらしく、姿様子が可憐で美しいばかりでなく、細かいことにも気が付き、思い遣りがあり、言葉にも物事の捉え方にも優しい気持ちが あふれている――と、大絶賛。 女の話など滅多にしない一輝が――というより、これまで 一度もそんなことのなかった一輝が、嬉々として 一人の少女を褒める様を見て――不粋な鉄格子のせいで、実際に その様を見ることはできなかったが、その声音から――ついに一輝にも春が来たかと、誰にでも春は来るものなのだと、氷河はしみじみ感じ入ることになったのである。 聖域でも名うての硬派だった一輝に、ついに訪れた春の予感。 それは実に喜ばしいことだったのだが、一輝の春には 一つだけ問題があった。 アテナイからの使者(ということになっている)アテナの聖闘士の許に毎日の食事を運んできてくれるエスメラルダという名の少女を、実は氷河も大いに気に入っていたのだ。 一輝が言う通り、エスメラルダは、姿が美しく可憐なことには 文句のつけようもなく、細やかな気配りができ、心根も優しく穏やか。 これまでに氷河が出会った どんな少女、どんな女性より、氷河の好みに合致していた。 こういう場合、一輝の友人として、地上の平和と安寧を守るために戦う仲間として、自分は どう振舞うべきなのか。 ここは やはり、己れの心のままに行動することは控えて、一輝の春を見守ってやるべきなのだろうかと、氷河が考え始めた時。 隣りの部屋の一輝が 突然、 「エスメラルダ!」 と大きな声を張り上げて、彼の春の名を呼んだのである。 露台の鉄格子の向こうに見える中庭に、洗濯物の入った籠を抱えたエスメラルダが通りかかったのだ。 一輝に名を呼ばれたエスメラルダが 嬉しそうな笑顔を作り、一輝に向かって ぺこりと 軽くお辞儀をする。 二人の そのやりとりを見た氷河は ひどく不愉快になり、まるで一輝に対抗するように、自分もエスメラルダの名を呼んでしまっていた。 「エスメラルダ!」 だが、何ということだろう。 氷河に名を呼ばれるや、一輝のために作った笑顔を強張らせ、エスメラルダは 彼女の仕事場の方に足早に逃げていってしまったのだ。 「……」 思ってもいなかった、エスメラルダのその行動。 いったい 二人の男に対するエスメラルダの反応の違いは何なのだと、氷河は当惑してしまったのである。 客用寝室という名の牢獄に日々の食事を運んできてくれるエスメラルダと、氷河は これまで いつも和やかに――少なくとも、敵同士という空気は感じられない接し方をし、言葉も交わしていた。 それが、まるで見知らぬ不審人物に声をかけられたかのようなエスメラルダの この反応。 氷河は、まるで わけがわからなかったのである。 そんな氷河に、一輝が嬉しそうに、 「気の毒だが、貴様はエスメラルダに嫌われたようだな」 と、形ばかりの同情を示してくる。 「可愛いばかりでなく利発そうな子だと思ったのに、まさか こんなに悪趣味な子だったとは」 一輝の得意顔に(実際に見えてはいないのだが、容易に想像はつく)、氷河は 精一杯の皮肉で答えるしかなかったのだった。 聖域でも五指に入る堅物男に ついに訪れた春。 エスメラルダも一輝に気があるのなら、やはり自分は潔く身を引くしかないだろうと、氷河は考えた。 そう考えて、その考えを実行しようとしていたのである、氷河は。 しかし、実際にエスメラルダの姿を間近に見ると、どうしても その決意が鈍ってしまう。 澄んだ瞳、優しい横顔、小さな所作の一つ一つ、『何か不自由なことはありませんか?』と尋ねてくる声、その眼差し、首をかしげる様子。 エスメラルダは、そのすべてが、どうしようもなく氷河の好みだったから。 それでも、今朝方の中庭でのエスメラルダの態度は 好みではない――不愉快である。 次にエスメラルダが食事を運んできた時、氷河は つい、エスメラルダを睨みつけてしまった。 「僕、何か 粗相をしてしまいましたか……?」 氷河の不機嫌に気付いたらしいエスメラルダが、困惑したような目で 氷河の顔を見上げてくる。 そんな様子も可愛くて――嫌われているとは思い難くて――氷河は僅かに唇を歪めることになった。 「今朝方、庭に出ていた おまえの名を呼んだら、まるで飢えたクマにでも出会った子供のように、おまえは逃げていった。一輝には笑顔で答えていたのに」 「え……?」 一瞬 何を言われたのかわからないとでもいうかのように、エスメラルダがきょとんとした顔になる。 それから 2、3度 瞬きを繰り返し、最後にエスメラルダは、氷河の視線を避けるように その瞼を伏せてしまった。 「あ……それはあの……恥ずかしかったから……」 「ん?」 エスメラルダは、その言葉通りに、ほのかに頬を上気させていた。 その様子を見た途端、氷河の頭の中からは、ついに春が訪れた仲間のために自分は潔く身を引こうなどという考えは、どこかに飛んでいってしまったのである。 「恥ずかしかったから? 俺より一輝が気に入ったからではなく?」 「どちらが気に入ったとか気に入らないとか、そういうことではなく、僕は、お二人を同じように お世話するように言われています」 そう言いながら、エスメラルダの頬の赤味は ますます増していく。 氷河は すっかり有頂天になり、そして、身を引く代わりに 身を乗り出していった。 「それは嫌だ。待遇対応は平等公平でいいが、せめて心の内では、俺を贔屓にしてくれ」 「え……? あ……でも……」 氷河の要望に困ったように、エスメラルダは 細かく身を震わせた。 そうして、『はい』という答えを待つ氷河に 望まれたものを手渡さず――エスメラルダはその身を翻して、氷河が閉じ込められている贅沢な監獄から逃げていってしまったのである。 エスメラルダが氷河の許に残していったのは、『はい』という返事ではなかった。 だが、エスメラルダは『それはできません』と、氷河の望みを はっきり拒絶したわけでもない。 それはつまり、『ほぼ“はい”』と解してもいいのではないだろうか――エスメラルダは本当は『はい』と答えたいのに、その立場上、『はい』と答えることができずにいるだけなのだ――。 恋をしている人間というものは、希望を持ちたがる生き物である。 そうでなければ、恋が実る時まで、人は その恋を維持継続することができない。 当然、氷河は希望を持った。 エスメラルダが恋しているのは――少なくとも、より深い好意を抱いているのは――鳳凰座の聖闘士ではなく白鳥座の聖闘士なのだと。 恋する男は希望を持ちたがるもの。 要するに、氷河はエスメラルダに恋をしてしまっていた。 |