「瞬の身体は冷え切っている。氷河、おまえが瞬の側にいても寒さが増すだけだ。おまえ、瞬のためにホットミルクでも作ってこい」
突然 紫龍が そんなことを言い出したのは、氷河の上に投じられた つらそうな瞬の視線に、彼が気付いたからだった。
瞬を つらくしているのは氷河で、瞬は 氷河のいるところでは、その訳を言えない――ということに。
「瞬はホットミルクの表面にできる膜が苦手だから、無脂肪牛乳でな。厨房にはないだろうが、コンビニやスーパーにはあるだろう。まだ、乳牛の被害は聞いていない」

「なぜ俺が」
それは、氷河にとっては慮外の指図。
「瞬のために働くのは嫌か」
紫龍は、そう問い返されることこそが慮外と言わんばかりの顔と口調で、逆に氷河に反問した。
そういう言い方をされると、氷河も『嫌だ』と答えることはできなかったのである。
いかにも不本意という態度で、それでも 氷河は踵を返し、瞬の部屋を出ていった。
瞬の部屋のドアが閉まる音を背後に聞くと、紫龍は改めて、瞬の方に向き直ったのである。
「これで、氷河は30分は戻ってこない。氷河のいないところでなら言えるだろう? 瞬、いったい どうしたんだ。おまえは 本当に自分の力で春を呼び寄せようとしたのか」
「……」

その場から氷河がいなくなっても――瞬はまだ つらそうだった。
それでも、無茶をして倒れた仲間の身を案じる仲間たちの前で、これ以上 沈黙を守っていることはできないと考えたのだろう。
瞬は やがて、ぽつぽつと、アンドロメダ座の聖闘士が その無謀に挑むに至った経緯を、力ない声で語り始めたのである。
「夢を見たの……ひと月くらい前。3月に入って、少しずつ暖かくなってきた頃」
「夢?」
「うん……。姿は見えないんだけど、僕の前に誰かがいて――その人が、自分には力があるって言うの。僕、それをハーデスだと思ったから、アテナに倒された あなたには もうどんな力も残っていないって、言い返したんだ。もう あなたは 地上世界に害を為すことはできないって」
「俺でも そう言う。それで?」
「でも、彼は 力を持ってるって言い張るの。試しに僕の願いを叶えてみせようって。それで僕……夢だと思ったから、深く考えずに、『じゃあ、夏が来ないようにしてみせて』って言ってしまったんだ。僕、夢だと……夢だと思って……」
「……」

夢だと思い、深く考えずに言ってしまったのだとしても、それは奇妙な願いである。
一人の人間の願いとしても、アテナの聖闘士の願いとしても。
当然のことながら、紫龍の次の質問は、
「なぜ、そんな願いを願ったんだ」
になった。
紫龍の横で、星矢も、いかにも解せないという顔をして顎をしゃくる。
「せっかくの申し出なんだから、世界を平和にしてみろとでも言ってやればよかったじゃん。ハーデスが どんな対応をするのか、見物だったのに」
そう言ってから、星矢は、思い直したように、
「でも、そいつがハーデスって可能性はないだろ」
という言葉を付け足してきた。

瞬は、星矢のその言葉には何も言わなかった。
確かに あれはハーデスではなかったかもしれない。
冥府の王はアテナとアテナの聖闘士たちによって倒された。
あれがハーデスであった可能性は、限りなく低い。
そして、現に 夏の到来を拒むように地球の気温が低下し続けている今、あれがハーデスだったのか、そうでなかったのかということは、もはや大した問題ではない。
問題は、あれが、アンドロメダ座の聖闘士の アテナの聖闘士にあるまじき願いを叶えることができるだけの力を持った何者かだったということなのだ。
瞬は そう考え、自身の軽率を悔いているようだった。

「夏が来ると、氷河が――日本の蒸し暑い夏には耐えられないって、シベリアに行っちゃうから……。夏が来なければ、氷河はずっと僕の――僕たちの側にいてくれると思ったから……」
「はあ?」
持てる力の強大さには不釣り合いなほどの常識人で、アテナの聖闘士の中では最も一般的な感性と判断力の持ち主。
そう信じていた瞬に、星矢は今日は驚かされっぱなしだった。
小宇宙を燃やして 力を放出し尽くしたわけでもないのに 突然倒れ、小宇宙が全く感じ取れなくなり、更には“邪まな心”保有の告白。
その上、ハーデスに『夏が来ないようにしてほしい』と願ってしまったという瞬。
それだけでも、今年1年分の驚きを今日1日で驚ききった気分だったというのに、とどめが、『夏が来なければ、氷河はずっと僕の側にいてくれると思ったから』である。
驚きも怒りも喜びも、そして幸福と不幸さえ、人間が一生のうちに経験する回数や量に上限値はないのだと、星矢は つくづく思ってしまったのだった。
人は、生きている限り、幾度でも 新鮮な驚きを経験することができる。
おそらく幸福になることも、人はいくらでもできるに違いない――と。

「つ……つまり、おまえは、氷河をシベリアに行かせないために、そんなことを願っちまったのかよ?」
驚き呆れ、そう問い返した星矢に、瞬は否とも応とも答えを返してこなかった。
代わりに、その瞳から ぽろぽろと涙の雫を零し始める。
「どうしよう……。僕のせいだ。僕が氷河と一緒にいたかったばっかりに……」
瞬が泣いているというのに――星矢は、何と言って瞬を慰めればいいのかが わからなかったのである。
地球滅亡の危機の原因が、白鳥座の聖闘士の夏嫌い。
その事実を知らされて、星矢に何ができただろう。
何もできない――できることはない。
おそらく星矢には何もできなかったろうが、だからといって、
「なんで、んなことしたんだよ」
などという質問は、瞬に対して酷、そして不粋というもの。
「星矢。野暮なことを訊くな」
惨酷で不粋な天馬座の聖闘士を たしなめた龍座の聖闘士への答えは、思わぬところから返ってきた。

「俺は聞きたい」
答えを返してきたのは、言わずと知れた白鳥座の聖闘士――瞬のためのホットミルクを用意するために、無脂肪牛乳調達に出ているはずの氷河だった。
音を立ててドアを閉じ 瞬の部屋を出ていったはずの氷河が、いつのまにか そのドアの前に舞い戻っていたのである。
そこに氷河の姿を認め、瞬は真っ青になった。

「なぜ、おまえがここにいる。牛乳を買って来いと言ったろう」
「俺を追い払おうとしているのが 見え見えだったんでな」
「わかっていたなら、素直に追い払われるのが礼儀というものだ」
もしかしたら、紫龍には 最初から氷河を遠ざけるつもりはなかったのかもしれない。
言葉は 礼儀知らずの仲間を責めるものだったが、彼の声や表情は 特段 不愉快そうではなかった。

「聞かせてくれ」
星矢の野暮を、氷河が引き継ぐ。
瞬のベッドの枕元に歩み寄り、氷河は、もう一度 その野暮な言葉を繰り返した。
氷河の登場に驚き見開かれた瞬の瞳からは 再び涙の雫が零れ落ち始め、だが それは、瞬のベッドや毛布や その上に置かれた瞬の手を濡らす前に、氷河の指で受けとめられていた。
「僕が我儘だったの。氷河を、僕の作った塀の中に閉じ込めようとしたの……」
「俺は喜んで、閉じ込められる」
「そんなことしちゃいけなかったんだって気付いた時にはもう、地上は寒くなってしまっていて――僕、誰にも言えなかったの」
「言ってくれたら、俺は、持てる力のすべてを投じて、おまえの塀作りに協力していたのに」
「……」

アテナの聖闘士の資格を剥奪されるべき者の最右翼候補は、どう考えても瞬より氷河の方だった。
アテナの聖闘士にあるまじきことを真顔で言ってのける氷河の顔を見上げ、瞬が ぱちぱちと瞬きをする。
瞬の頬には、少しずつ血の気が戻り始めていた。






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