事の起こりは、花の季節を過ぎた1本の梅の木だった。 庭に植えられているものではなく、鉢植え。 鉢植えとはいえ、木の高さは1メートルを越えており、横に広がる枝は、最も長いところで その倍もあった。 梅は、年を経た老木であればあるほど良いとされる木である。 複雑に幾度も折れ曲がり、経年を感じさせる ごつごつとした枝が作り出す威厳ある風情は、“疎痩横斜”と呼ばれ、長寿の象徴として尊ばれている。 そういった姿を得るために 剪定を繰り返し、実際よりも古い木であるように見せかけることも多い。 城戸翁の趣味だったのだろう その梅の木も、一見したところでは半世紀以上の時を経た老木だったが、実際には せいぜい10年20年程度の歳の若い木だったのだろう。 昨年までは花しかつけなかった木が、今年初めて実を結んだところを見ると。 問題の梅の木は、主に外国からの客を通す客間――厚手の絨毯が敷かれた洋間に、なぜか床の間のある客間――に置かれていて、その木が実をつけていることに最初に気付いたのは星矢だった。 ラウンジの絨毯をクリーニングするというので、城戸邸に起居する青銅聖闘士たちが一時的に避難する先に その客間を選んだのが星矢だったのだ。 「へー、この木、実をつけるんだ。銀杏の雄株みたいに、実をつけない木なんだと思ってたぜ」 去年までは実を結ばなかった梅の木。 今年つけた実は、たった一つだけ。 普通の人間なら、仲間のいない孤独な梅の実に手で触れることも躊躇するところだろうが(実際、星矢以外のアテナの聖闘士たちは、その木の姿を鑑賞するにとどめていた)、あいにく 星矢は そんな ためらいの心を持ち合わせてはいなかった。 「梅の実って、食えるんだよな? 記念すべき最初の実、俺が食ってやるぜ!」 「あ……」 ためらう様子もなく、たった一つだけ実っている梅の実に のばされた星矢の手を見て、瞬が ごく小さな悲鳴をあげる。 星矢の腕を掴んで、彼の心無い(?)振舞いを止めたのは氷河だった。 「やめておけ。梅の実には毒がある」 「えーっ、ほんとかよ」 「青い梅の実はシアンを含むんだ。胃酸と反応して毒を作る。へたをすると死ぬこともあるぞ」 「えええええーっ!」 さすがに梅を食して死ぬのは嫌だったらしく、星矢は氷河の忠告に従って素直に――というより、勢いよく――梅の木の前から後方に飛びすさった。 「それに、『桃栗三年、柿八年。梅は酸いとて十三年』と言うだろう。梅は、実が実るまでに長い時間がかかるんだ。加工すれば食えないことはないが、やっと実った実だ。そのままにしておいてやれ」 「んー……。1粒だけじゃ、梅干しにする手間をかける気にもならねーしなー」 たった一つだけ実った梅の実を腹の中に収めることを断念してくれた星矢を見て、瞬が ほっと短い吐息を洩らす。 それから瞬は、僅かに首をかしげて微笑した。 「氷河って、時々、意外なことを知ってて驚かせるよね。僕、『桃栗三年、柿八年』に続きがあるなんて知らなかったよ。そういうこと、紫龍が言うなら、奇異にも思わないんだけど」 「それは褒めているのか?」 瞬の真意が本当にわからなかったらしい氷河が、真顔で瞬に尋ねる。 瞬は すぐに、 「もちろんだよ」 と答えた。 瞬がそう言うのならそうなのだろうと得心した顔で、氷河が梅の木に向かって軽く肩をすくめる。 「梅には、毒もあるが、薬効もあるからな。『梅は三毒を絶つ』。梅は、食べ物の毒、 血液の毒、水の毒を抑えることができる――んだそうだ。ガキの頃、シベリアで、マ……母のために植えようとしたことがある」 「え?」 「俺の母は、線の細い人だったから……」 線の細い母親のために、身体に良いものを――と、幼い氷河は考えたのだろうか。 そのために、幼い氷河は、梅の木を植えようとしたのか。 壮健とは言い難い母を思う子供の心は健気であるが、しかし、それは 幼い子供には なかなか思いつけない特異な発想でもある。 いったい どういう経緯で、氷河は そんなことを思いついたのかと、瞬は訝ることになった。 「林檎というのも考えたぞ。だが、梅も林檎も、種を植えてから 実を結ぶようになるまでに10年以上かかると聞いて、断念したんだ。ガキの俺には、実が実るまでの10年が 永遠と大差ない長い時間に思われた。まあ、あの時、梅や林檎を植えていても、マ……母が生きているうちには 間に合わなかったろうが」 「氷河……」 氷河が その計画を立て 断念した時、氷河は幾つになっていたのか。 少なくとも、その日その日を生きることに精一杯で、10年後の自分の姿を具体的に思い描くことができないほどには幼かったのだろう。 幼かった氷河は、彼の優しく儚げな母を、今日――せめて明日、喜ばせたかったに違いない。 そして、彼女の笑顔を見たかった――。 それは、どうあっても見果てぬ夢に終わる望みだったのだが。 「氷河、優しいね」 そう告げる瞬の瞳は潤んでいた。 氷河が、その瞳に戸惑ったような素振りを見せる。 「日本と違って、輸送物流網が発達していなかったから――今もなんだが――シベリアの僻地では果実は高価だったんだ。金がなかったから、自分で育ててやろうと思っただけだ。苗木を買うことはできないから、種を植えるしかなかった。種なら、どこからでも ただで手に入ったし」 「うん……」 「俺は別に優しくなんかないぞ。金がないという現実が、そんな考えを俺の中に生ませただけで」 優しいことが罪であるかのように、幼い頃の自分の思いつきを弁解し始めた白鳥座の聖闘士。 氷河の その対応を見て、紫龍は呆れた顔になった。 「せっかく瞬が優しいと言ってくれているのに、あえて否定することもないだろう」 「あ? ああ、そうか……」 言われてみれば その通りだと、自身の優しさを否定し終えてから、氷河は気付いたらしい。 氷河は、自分自身と仲間たちをごまかすような笑いを作り、気まずげな様子で、梅の木の前から客間のソファに移動した。 |