「紫龍の言う通りだ。せっかく瞬が俺を優しい人間だと誤解してくれているんだから、そのままにしておけばよかったのに。きっと瞬に おかしな男だと思われたぞ……」
ラウンジの絨毯のクリーニングは1時間弱で終了。
その知らせを受けて、青銅聖闘士たちは いつものラウンジに戻っていった。
仲間たちと一緒に戻りかけた氷河は、ふと思い立って、一人 その場に残り、白鳥座の聖闘士に奇矯な振舞いをさせる原因となった梅の木に向かって、恨み言をぼやいたのである。

それは、氷河自身には、『王様の耳はロバの耳』という秘密を胸の中にしまっておけなかったミダス王の床屋のように、自分の中にある わだかまりを声に出して すっきりしようとしての行動だった――かもしれない。
氷河自身にも本当のところは わかっていなかったのだが、ともかく彼は 仲間たちのいなくなった客間で、梅の実を一つだけつけた梅の木に向き合い、そう 独りごちたのである。
そして、気付いたのだった。
瞬が梅の木の枝から引き離してしまいたくないと思っていた、たった一つの梅の実。
その実が梅の木から消えてしまっていることに。

「星矢の奴、いつのまに……。青い梅は毒だと、あれほど言ったのに。もし、瞬が知ったら――」
瞬が知ったら、言ってみれば親から引き離されたも同然の梅の実の境遇を――悲しむとまではいかなくても、残念がることはするだろう。
ここは きつく星矢をとっちめてやらなければならないと、梅の木の前で、氷河は即座に踵を返した。
が。
憤り、客間のドアに向かって大股で歩き出した氷河を、
「待て。あの少年の仕業ではない」
と引き止める声があったのである。

「ん?」
この客間に一時避難していたアテナの聖闘士たちは全員、既に、いつものラウンジに戻っていったはず。
氷河は、自分を この客間を出る最後の人間と認識していた。
にもかかわらず、ドアに向かって歩いていた白鳥座の聖闘士の背後から 人の声が聞こえてくるのは おかしなことである。
しかも、その声は、氷河の記憶にない男の声。
これは何者の声だと訝って、氷河は、再度 梅の木の方を振り返った。
そして次の瞬間、氷河は ぎょっとして その場に立ち尽くすことになったのである。

ここは、厳重なセキュリティシステムに守られ、余人が許可なく入り込むことは困難なグラード財団総帥の私邸。
それ以前に、21世紀の日本である。
だというのに、そこにいた男は、どこの服飾史の本から抜け出してきたのかと問い質したくなるような奇矯な服を身に着けていたのだ。
奇矯といっても、それは、“人間が身にまとうものとして異様”という意味ではない。
“TPOを わきまえていない服”という意味での“奇矯”である。
その男が身に着けていたのは、古代ギリシャでなら全く違和感のない衣装だった。
右肩を剥き出しにした、白い亜麻布のキトン。
現代人の感覚でいえば、ノースリーブのミニスカート。
ウエストを水色の紐で結び、編み上げのサンダルを履いている。
それは、今から2、3000年前の南欧でなら ごく一般的な恰好、普通すぎて詰まらない恰好。
だが、現代の日本では奇矯と表するしかない恰好だった。
その姿を認めた氷河は、まず『こんなところで、男の太腿なんか見たくなかった』と思い、そして、実に楽しくない気分になってしまったのである。

見たくはないが、見てしまったものは仕方がない。
ここは現代日本だが、この屋敷の住人はギリシャに ゆかりがないわけでもない。
服装への文句を言う代わりに、氷河は、彼を、
「貴様、何者だ! 地上に仇なす邪神かっ!」
と、大声で怒鳴りつけた。
怒鳴りながら、地上支配に野心を抱く邪神にしては、この男は優男にすぎるという印象を抱く。
濃褐色の巻き毛、黒い瞳。
顔の造作に似たところは全くないのだが、彼の印象・雰囲気は、ポセイドンが意識の表層に現れる以前のジュリアン・ソロのそれに似ていた。

「私の名は、ウェルトゥムヌス」
太腿をさらけ出した優男が、自らの名を名乗ってくる。
「ウェルトゥムヌス?」
氷河が その名を復唱したのは、彼の名が聞き取りにくかったからではなく――それが 氷河には 初めて耳にする名前だったからだった。
ギリシャの主な神々の名は知っているつもりだったが、聞き覚えがない。
氷河は、懸命に自身の頭の中の索引を引いて、その名を冠する者の正体を探ろうとしたのである。
2、3分後、氷河が辿り着いた その名のありかは、『V』の項ではなく『P』の項だった。

「その名、オウィディウスの『変身物語』にあったような――。確か果樹の……」
「そう。果樹の女神ポーモーナの夫だ」
果樹の女神の名を出されて、氷河はやっとウェルトゥムヌスなる神が いかなる神であるのかを思い出したのである。
ウェルトゥムヌスという神が、常に果樹の女神ポーモーナと共に語られる神であること、ポーモーナの付属品のように認識されている男神であることを。


果樹の女神ポーモーナは、果樹園を荒らす乱暴な異性を避け、一人で 彼女の果樹園を守り暮らしていた。
彼女の美しさに恋をしたのがウェルトゥムヌス。
彼は、ポーモーナの心を得るために、老女の姿に化けて彼女の許に行き、ウェルトゥムヌスを――自分自身を――褒めちぎり、あの手この手で売り込むという計画を実行する。
『ウェルトゥムヌス』はラテン語の『 verto(転じる、変化する)』に由来する神で、植物を果物に転ずる力を持ち、同時に 彼自身も変身能力を有していたのだ。
残念ながら、老婆に化けてのウェルトゥムヌス売り込みは功を奏さず、ウェルトゥムヌスは自身の恋を諦めかけて、ポーモーナの前に自分の真実の姿を現わす。
自身の努力が実らなかったことへの失望から、彼はそうしたのだが、なんと ポーモーナはウェルトゥムヌスの真実の姿を見て、一目で恋に落ちてしまった――。


ウェルトゥムヌスは、そういう逸話を持つ男だった。
その事実を念頭に置き、改めて彼の様子を観察すると、その逸話通り、ウェルトゥムヌスは確かに美形といえる姿を持っていた。
猛々しい印象はなく、むしろ柔和。まさに優男――である。
もっとも、変身能力を持つ神の容姿の美しさを、氷河は 素直に信じる気にはならなかったが。
恋を実らせた幸運な男への やっかみもあって、彼を許し難い男だとも思ったのだが。
ともあれ、果樹の女神ポーモーナの夫は、地上をどうこうする力は持っていなさそうで、その点に関してだけは、氷河も安堵したのである。

「そのポーモーナの夫とやらが、なぜここにいる」
「あの梅の実は、私が化けていたものだったんだ。姿を変えた神が人間に食われるなどという 前代未聞の椿事が起きるのを、君は防いでくれた。私は君に助けられた。君は私の命と名誉の恩人だ」
「梅の実に化けていた――?」
普通の人間なら、この男は頭がおかしいものと決めつけるところである。
しかし、アテナの聖闘士である氷河は、特殊な力を持つ神々に接し慣れていた。
ゆえに、氷河は、彼を狂人とは思わなかったし、彼が梅の実に化けていたという話を疑うこともしなかった。
そもそも、今 問題なのは、変身能力を持ったギリシャの神が なぜ現代の日本にいるのかということであり、彼は なぜ よりにもよって梅の実などというものに化けていたのか――ということの方だったのだ。

「俺は貴様を助けようとして助けたわけじゃない。そんなことより、貴様は なぜここに――日本にいるんだ。しかも、梅の実なんかに化けて。まさか アテナに害を為すために、この屋敷の内に入り込んだのではあるまいな」
片や、オリュンポス十二神の中でも傑出した存在である知恵と戦いの女神。
片や、神々の名士録に独立した項目も持たないような末端の神。
とてもアテナの対抗する力を持っているとは思えなかったのだが、氷河は 一応、彼を問い質した。
優男の神が、緊張感のまるでない声で、氷河の詰問に答えてくる。

「私は、花を果実に変化させる力を持つ神。そして、我が妻ポーモーナは果樹の女神だ。当然のことながら、果実を尊いものと考え、果樹や果実を心から愛し慈しんでいる。先日、何かの弾みで、我々の間にアテナの話題が出たのだ。アテナのいる日本では、果実を実らせる梅よりも、果実を実らせない桜の方が尊ばれているらしい――と。我が妻は、その事実に いたく憤慨し、なぜ そのようなことになったのか、理由を知りたいと言い出した。そして、私に その訳を調べてくるように命じたのだ」
「なに?」
「なんでも、日本では、8世紀――奈良時代以前は『花』と言えば梅を指すことが多かったそうではないか。それが いつのまにか、桜にとって代わられたと聞く。いったい、それはなぜだ?」
「……」

ウェルトゥムヌスの事情説明を聞いて、氷河はまず、妻に いいように使われているウェルトゥムヌスを 同じ男として情けなく思った。
次に、彼が解明すべき謎は、梅の実に化けていれば 答えが降ってくるようなものなのだろうかと訝った。
そして、最後に、そんな謎を解明するために わざわざ極東の島国までやってくるとは、神とは よほど暇な生き物らしい――と呆れた。
まだ地上支配を企む邪神の方が、怠惰な有閑人でない分――もとい、有閑神でない分――はるかに ましなのではないかとすら、氷河は思ってしまったのである。

「俺は、花といえば薔薇だがな」
「薔薇?」
氷河の意見を聞いた果樹の女神の夫が、ひたすら不可解と言いたげな視線を氷河に向けてくる。
果樹の女神の夫は、植物は果実を実らせてこそ 存在意義があるという考えでいるらしく、果実を実らせない桜や薔薇には高い価値を認めていないようだった。
実を実らせることより 潔く散ることの方に、日本人は魅力を感じるのだ――と説明しても、日本人の美意識は この男には理解できまい。
氷河は、そういったことを果樹の女神の夫に説明してやる気にはなれなかった。
ウェルトゥムヌスも、日本人と かけ離れた容姿を持つ白鳥座の聖闘士が 日本国における“花”の変遷について つまびらかであるとは思っていなかったらしい。
彼はしつこく氷河に食い下がってくることはしなかった。

「とにかく、君が私を乱暴者の手から救ってくれたのは事実だ。一言 礼を言っておこうと思ってな」
礼など言わずに黙って消えてくれていた方が、面倒がなくてよかったのに。
本音を言えば、氷河は そう思った。
とはいえ、もしウェルトゥムヌスが“黙って消えて”しまっていたら、白鳥座の聖闘士は 星矢に梅の実泥棒の濡れ衣を着せてしまっていただろう。
ウェルトゥムヌスが 梅の実が消えたのは星矢のせいではないと言いながら自身の本当の姿を現わしたところを見ると、彼は不正や誤解を厭う神であるらしい。
少なくとも彼は 地上世界に害を為す邪神ではないと判断して、氷河は果樹の女神の夫に憎まれ口を叩くことは思いとどまった。
そんな氷河に、ウェルトゥムヌスが急に哀れむような眼差しを投げてくる。

「君の親切には感謝している。そして、先程の君の様子を見ていて、私は君が恋の苦しみに囚われていることに気付いた。その苦しみは、私も身に覚えがある。私は、果実の実りだけでなく、恋が実ることを寿(ことほ)ぐ神でもある。ぜひ君に力を貸したいと思うのだが……」
「俺に力を貸す? 別に、恩返しなどしてくれなくてもいいぞ。見たところ、大した力も持っていなさそうだし」
氷河は全く他意はなく、アテナの聖闘士がウェルトゥムヌスのような優男に助けられるイメージを形作ることができなかったから、彼の助力の申し出を遠慮しただけだった。
が、たかが人間の その発言は、仮にも神である彼の誇りを傷付けることになってしまったらしい。
ウェルトゥムヌスは むっとした顔になって、氷河の誤った認識を正してきた。
「私を侮らないでもらいたいものだ。私は君に変身能力を与えてやることができる。大洪水や惑星直列を起こして地上世界を滅ぼすような力より はるかに有益で、利用価値のある力だ」

地上世界を滅ぼす力より 変身能力の方が優れた力であるというウェルトゥムヌスの主張には、氷河も全く同感だった。
ウェルトゥムヌスの意見は、全く正しい。
氷河は、彼の その言葉には深く首肯してみせたのである。
しかし。
「貴様の その意見には全面的に賛同するし、貴様の力が優れて価値あるものだということも認めるが、残念ながら、俺は そんな力を必要としてはいないんだ。見ての通り、生まれつき いい男なんでな」
「だが、恋に悩んでいる。私にはわかる。私も恋には 本当に悩まされたからな。容姿が優れていれば、恋の勝利者になれるというものではない」
「……」

ウェルトゥムヌスの言葉は、またしても賛同しないわけにはいかないものだった。
彼の言う通りである。
優れた容姿を持つ者が 恋の勝利者になれるのなら、白鳥座の聖闘士の恋は とうの昔に実っていていいはずなのだ。
おまけに、『私も恋には悩まされた』というウェルトゥムヌスの過去形での発言。
その発言には、既に恋を実らせた男の余裕があった。
優男の余裕の発言は、未だ 恋の果実を味わったことのない氷河の胸中に、引け目のようなものを生じせしめることになったのである。
悔しいが、氷河には 返す言葉も持てなかった。

「私は、私の変身能力を使って、ポーモーナとの恋を実らせた」
得意げに告げるウェルトゥムヌスに、『他人に化けて 自分を売り込むなんて、卑劣で図々しい真似をしたんだろう』と嫌味で応じることは、氷河にはできなかった――彼は そうしなかった。
代わりに、
「……使える力かもしれんな」
と、低い声で呟く。
「もちろん」
恋の勝利者は、圧倒的に氷河の優位にいる。
自身の劣位を認めて 口をつぐんでしまった氷河の前で、ウェルトゥムヌスは得々として その顎をしゃくってみせた。

「では、その能力を君に授けよう。『桃栗三年、柿八年。梅は酸いとて十三年』と唱えて、なりたいものの名を言う。それで 君は梅の実にも林檎の実にも変身できる。変身を解く呪文は『桃栗三年、柿八年。梨の大馬鹿十八年』だ。無制限に その力を与えるわけにはいかないので、3回だけ。健闘を祈るぞ」
『だから、どうして そこで梅の実が出てくるんだ』と氷河が言おうとした時にはもう、果樹の女神の夫の姿は 氷河の前から煙のように消えてしまっていた。






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