地上を滅ぼす力などより はるかに有益で価値のある その力を使えるのは3度きり。
ここは慎重に考えなければならない。
誰に化けて“氷河”を売り込めば、瞬の心を最も効果的に動かすことができるのか。
瞬は、誰の言葉をなら、最も素直に――無条件に 受け入れ、信じるか。
氷河の脳裏に最初に思い浮かんだのは、彼としては実に不本意ではあったのが、彼の恋の最大の障壁である瞬の兄の顔だった。
「一輝か……」
それは極めて的確な人選である。
一輝の言葉なら、瞬は、それを唯一無二の神の御言葉のように受け入れ、信じ、従うだろう。
だが、問題が一つ。
氷河は、一時的にとはいえ、自分が あんな暑苦しい顔の持ち主になるのは嫌だった――絶対に嫌だったのである。
偽の一輝が瞬といる時、万一、一輝当人が ふらりと弟の許に戻ってくることがあったら面倒なことになる――という懸念もある。

一輝以外に瞬に言うことをきかせられる人物というと アテナがいるが、これは一輝より まずい相手だろう。
本物と偽者が鉢合わせする可能性は 一輝のそれより大きいし、女子に化けるのは、氷河としても気が進まない。
アテナ当人に ばれた場合、命があるかどうか わからないという問題もある。

そういった事柄を考えると、瞬の身近にいる人間はすべて、変身対象の候補から外すしかなさそうだった。
白鳥座の聖闘士が化ける相手は、本物と鉢合わせをする可能性のない人間でなければならないのだ。
ウェルトゥムヌスが ポーモーナに影響力を持たない 通りすがりの(?)老婆に化けたのは、案外 賢明な選択――あるいは、やむにやまれぬ選択だったのかもしれないと、氷河は思ったのである。
しかし、氷河には その手は使えなかった。
何といっても、通りすがりの老婆は、セキュリティシステム完備の城戸邸に入れない。
通りすがりの老婆が なぜアテナの聖闘士である氷河を知っているのかと疑われる危険もあるだろう。
つまり、氷河は、城戸邸にいる理由を 不自然でない程度に捏造することができ、本物と鉢合わせする可能性がなく、白鳥座の聖闘士のことを知っていても奇妙ではなく、できれば瞬の信頼を得ている人物――に化けなければならないのだ。

「一輝は駄目、アテナも駄目。星矢たちは論外、通りすがりの老婆も駄目か。いっそ幽霊にでも化けるか。死んだ者なら、少なくとも鉢合わせの危険はない――」
氷河のそれは、正しく“ぼやき”だった。
氷河が そう呟いた時、彼は決して本気で そんなことを考えていたわけではない。
しかし、そうぼやいてしまってから、それは案外いい案かもしれないと、彼は考え直したのである。
たとえば、瞬の師であるケフェウス座のアルビオレ。
あの瞬が、その死の報復を考えるほど敬愛していた瞬の師匠。
師の言葉なら、瞬は無条件に信じ 受け入れるだろうし、幽霊なら、彼が白鳥座の聖闘士のことを知っていても不思議ではない――理由は何とでも こじつけられる。
金髪碧眼の若い美形なら、氷河としても化けることに抵抗はない。

これは いい手だと、氷河は思ったのである。
それ以前に、他に適当な人物がいないのだ。
そう考えた氷河は、自室についている洗面室の鏡の前で、早速 瞬の師ケフェウス座の白銀聖闘士アルビオレに化けてみたのである。
ウェルトゥムヌスに教えてもらった あの呪文『桃栗三年、柿八年。梅は酸いとて十三年』を唱え、
「瞬の師、ケフェウス座のアルビオレになれ」
と言って。

果実の実りを寿(ことほ)ぐ神の力は覿面。
次の瞬間、洗面台の鏡の前にいたのは、白鳥座の聖闘士ではなく、ケフェウス座の白銀聖闘士アルビオレだった。
金髪碧眼。
“氷河”より 年かさで、誠実そうな印象。
瞬の師にしては 圧倒的な個性や非凡性は感じられないが、聖闘士としての力強さは感じられる。
瞬の武器が 優しさや清らかさなのなら、彼の武器は 誠実と包容力だったのだろう。
瞬の師ケフェウス座のアルビオレは、そういう佇まいを たたえた男だった。
結構な美形で、生きていたなら彼は白鳥座の聖闘士の嫉妬心を煽る存在になっていたかもしれないが、彼は既に亡くなっている。
氷河は、心のどこかで その事実に安堵のようなものを覚えていた。

ともあれ、外見は完璧である。
次なる課題は、瞬の気持ちの確認と、瞬の心を白鳥座の聖闘士に向ける効果的な方法と手順を考えること。
氷河は まず、現在の瞬の気持ちを確かめなければならなかった。
瞬が白鳥座の聖闘士に対して、仲間として 友人として好意を抱き 信頼していることは確かだが、それは恋に発展する可能性を持つものなのかどうか。
そもそも 瞬は、そういう恋を どう思っているのか。
氷河は、最初に その点の確認から入らなければならなかったのである。

男子である瞬を、同じく男である白鳥座の聖闘士が恋しているのだ。
氷河は、“相手が瞬なのだから、その気持ちは自然で当然で、俺が恋に落ちるのも仕方がない”程度の認識でいたのだが、瞬もそうだとは限らない。
瞬は、人を差別するような人間ではないから そういったことを全く気にしないかもしれないが、アテナの聖闘士の中では比較的常識人でもある瞬は、ナチュラルに同性を恋愛対象外としているかもしれないのだ。
白鳥座の聖闘士の恋は問題山積、前途多難。
氷河は、神との戦いに挑む時より心身を緊張させ、瞬のいる城戸邸の春の庭に下りていったのである。






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